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第二章 桃とパイナップル(3)

「それで、二人の今後はどうなるんですか!?」


「それは心苦しい質問じゃが、お主のためじゃ、答えてやろう。男にはお主と結婚する意志はない。更に言えば男がこの先、お主の望むしっかりした男に成長することもない」


「そんな……!」


「このままズルズル付き合い続けていき、やがてお主がそんな関係に耐えられなくなって、ジ・エンドのパターンじゃな」



 なごみの精神状態とは裏腹に、占い師は人を落胆させるのが楽しくてしょうがないとでも言うように長い八重歯を見せてニヤッとする。


なごみは絶望していた。こんなに気持ちが折れることなんて、母を亡くした時以来かもしれない。芯が強く、滅多に落ち込むことのないなごみだからこそ、いったん落ち込んだ時のショックは激しい。



「更に言えば、男と別れたところでお主に新しい出会いがあるかというと、今のところその気も出ていない」


「そ、それじゃあ……!!」



 つい、悲鳴のような声を上げていた。人通りの多い場所で思わず大声を上げてしまっても、それを恥ずかしがる余裕もないほど、なごみはひどく絶望していた。



「それじゃあわたし、このまま寿と別れて、それから一生一人ってことですかー!?」


「まぁ、そういうことじゃな。そもそもお主は、今の男がなんだかんだいっても好きなんじゃろう。好きで好きでたまらないんじゃろう。別れたところで、新しい恋などには向かえない。今の男と添い遂げること、それしか考えていない。違うか?」


「違いません……」



 もう、見ず知らずの人間に自分の気持ちを言い当てられることを、なごみは不審に思わなかった。ただ、口に出してはっきりと形にされた自分の本心をかみ締めていた。


 本気で今日の合コンで寿に代わる新しい男を見つけようと思っていたかというと、違う。


なごみは寿が好きで、八年の年月を共にしてきた二人の絆は、今まで出会ったどの人よりも強い。家族や友人も含めて、なごみは今日まで、寿以上に深く人と関わったことがあっただろうか。



「わたし、どうすればいいんですか……?」



 呟くように言ったなごみの声はもう絶望に押しつぶされてはおらず、静かで透き通っていた。


占い師はその言葉を待っていたとでもいった顔で、木箱の下から小さな箱を取り出した。手のひらに乗るくらいの、ミニチュアサイズの宝箱みたいなものだ。


素材はたぶん金属。赤銅色に光っていて、飾り程度にぽつぽつと宝石が光っている。



「お主にこれを授けよう」

「何ですか、これは……?」

「パンドラの箱じゃ」

「パンドラの箱、って……」



 神話に詳しくないなごみも、その話ぐらいは知っていた。まさか本物ではないだろうが。



「それ、確か……中にこの世のあらゆる不幸や悲劇が詰まってるってやつですよね!?」


「そう、決して開けてはいけない箱だ。しかし、わしが作ったこのパンドラの箱には、願いを叶える力がある」


「願いを、叶える……?」



 占い師がひとつ大きく頷いた。占いやおまじないをとっくに卒業した二十六歳――来月二十七歳になる――の女性にとっては、願いを叶える箱なんて随分乙女チックな、そして非科学的な話だ。


しかしそういった冷静な思考ができなくなっていたなごみは、わらにもすがる気持ちで占い師の話を聞いていた。



「この箱を開けて中に願いを封じ込め、後は箱を誰にも見られないようにしなさい。そうすればお主の願いは叶う。代わりに代償を支払うことにはなるが」


「代償、って……」


「何かを失うということだ。それは金や地位や名誉かもしれない、あるいは男の他の、お主の大事な誰かかもしれない」


「……」


「代償を支払う覚悟があるほど男が好きなら、その箱を持っていくといい。そうでなければ今すぐこの場を立ち去り、今日のことは忘れるのじゃ」



 頭巾の奥の顔は相変わらず笑顔だが、言葉は強い。



 なごみは考えた。怖いのは、占い師の言う「代償」が何なのか、はっきり知らされていないことだ。


それは仕事に関することかもしれない。椿や大切な友人を失くすことかもしれない。あるいは父や弟妹や、家族に何かあったら。それも自分のせいで。


なごみの頭を不吉な考えがぐるぐるする。代償代償代償代償。占い師はどこか気味の悪い笑顔で、悩むなごみを面白そうに見ている。


 そしてなごみは決断した。



「この箱、いただきます」



 ハンドバックを持っていないほうの手でパンドラの箱を手に取り、くるりとUターンして速足で歩き出す。


一瞬で東京を壊滅させてしまう爆弾か、又はおそろしい細菌兵器や毒ガスでも抱えている気分だった。パンドラの箱には、この世のあらゆる不幸が詰まっている……



 気が変わった。振り返った。しかしたこ焼き屋の隣は何もないただの空間で、粗末な木箱も椅子も、もちろんあの魔女のようなおかしな占い師も、跡形もなく消えていた。



 夢なのだと思おうとした。しかしなごみの手の中にあるパンドラの箱は、占い師と一緒に消えてはくれなかった。



 無意識が見せた奇妙な夢だと理性が訴える。でも箱は確かにここにあるじゃないかともう一人のなごみが反論する。


二つの相反する思考のどちらにも賛成できないまま、家が近づいてくる。商店街から一本路地を曲がってしまうともう辺りは閑静な住宅街で、やや肌寒さを覚えるほど人気がない。


細い川を流れる橋の上まで来た時、箱に願いをかけたいという強い衝動がなごみの胸に突き上げてきた。



 神話に出てくる女神パンドラは、こんな気持ちで箱を開けなければわたしは死んでしまうと、夫にわがままを言ったのだろうか。


パンドラのような絶世の美女でなくても、なごみには彼女の気持ちがわかる。箱に願いをかけたい。しかし願いをかければ、代償を支払うことになる。それが何なのかわからない恐ろしさ。



 でももし願いをかけなければ、寿とは別れてしまう。そしてなごみは一生、一人――


 三十が見えてきた女にとって、「一生一人」に勝る恐怖など、ない。


 なごみは箱を開けた。中身は当然空っぽで、夜を切り取ったような濃い闇が広がっているだけだった。



「寿がもっとしっかりして、頼りがいのある大人の男になってくれますように! そしてわたしは、そんな寿と幸せな結婚がしたい……!!」



 言ってからすぐに箱を閉じて、願いを「封じ込め」た。にゃあご、と寝起きの寿がなごみを呼んで、心臓が喉から飛び出しそうなほどびっくりした。


振り向けば寿ではなくて、猫が独り言を言っているなごみを不思議そうに見上げていた。猫はもう一度にゃあご、と鳴いた後、足音を立てずにその場を去った。



 願いをかけた途端、空っぽのはずの箱がズンと確かな重みをなごみの手のひらに伝えてきた。願いの分の重さなのだろうか。考えてみれば気味の悪い話だ。


数秒後には煙のように消えてしまった怪しい占い師からもらった、これまた怪しい箱。


よくよく考えたら見ず知らずの人から物をもらうこと自体が間違っているし(幼稚園児でも親から言い聞かされて知っていることだ)、あそこまでなごみの境遇をすらすら言い当てる奴の正体は、ひょっとしたらストーカーか何かかもしれない。



「……気味が悪い」



 ぶるっと鳥肌がブラウスの下を覆った。もともとなごみは現実的な性格で、占いだの幽霊だの超能力だの、そういったものは一切信じないことにしている。なのにあんな怪しい人物の口車に見事に乗ってまんまとその通りになってしまうとは、どうかしていた。


 パンドラの箱なんて存在しない。人間が作り出した、ただのおとぎ話だ。



 そう自分に確認して、なごみは勢いよく箱を振り上げた。数秒ためらった後、川に向かって叩きつけた。ぽちゃんというあっけない音がして、水が少し跳ねただけだった。


 やるべきことをやり終えると、なんだかすっきりした。後悔なんかしない。占い師もパンドラの箱の存在も、なごみの無意識が見せたただの夢なのだから。


ひょっとしたらなごみの心の底には、椿に理想の出会いを語ったような乙女チックな部分が、まだかなり残されていたのかもしれない。


 ハイヒールを軽快に鳴らし、なごみは家路についた。


 暗い水の底ではパンドラの箱が妖しい赤銅色に輝いていた。


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