なごみは週に三回は寿の家にやってくる。放っておけば家はゴミ屋敷、食事もコンビニの弁当しか食べない寿のために、掃除をして洗濯物を片付け、ゴミを出してご飯を作ってくれる。
今日の夕飯はぶりの煮付けとほうれん草のおひたし、あさりの吸い物。料理の本にでも載っているような綺麗な盛り付けが目の前に出てくるので、いつもながら見事だと寿は思ってしまう。
「すごいじゃない、その寺井さん。ねぇ寿さ、そういう話聞いて何も感じないの? 自分も負けないように頑張ろうとかさ」
「んー別に。あいつはあいつで、俺は俺だし」
さも立派そうな言葉も、使うタイミングによっては不出来な自分への言い訳になる。なごみはそんな恋人への苛立ちを抑えられない。
「ねぇ寿さ、あんた今年三十でしょ? ちょっとは大人の自覚ってモン持ってくれないと困るんだけど」
「大人の自覚ならあるよ。ちゃんと税金も年金も、保険料だって納めてる」
「そういうことじゃなくて。寿って何事にもやる気がないっていうか、いい加減っていうか。せっかく入った会社なんだから、仕事で頑張ろうって気はないの? 今のままじゃ年収だってずっと上がらないじゃない」
「別にいいよ、今の年収に特に不満はないもん。それに好きでもない仕事、頑張ろうって気になれないし」
反論の余地のない返事にもどかしい不安が込み上げてくる。
なごみは結婚してから仕事を辞める気はないし、寿だけに頼って生活していく気もないが、女が子育てのためにある程度の期間仕事を休まなければならないのは仕方ないし、それに自分の経験とも照らし合わせて、子どもが小さいうちはなるべく家にいてあげたいという気持ちもある。
そして自分が仕事をしていない間は、どうしても寿一人の稼ぎに頼らざるを得ない。そういったことを寿は一度だって考えたことがあるのか。
「なんか最近のなぁごって、ほんっと優しくねーよな。説教臭いっていうか」
とどめのように寿はこんなことまで言い出した。なごみの箸を持つ手が止まる。
「一緒にいてもすぐこんな話だし、怒られてばっかだし、全然褒めてくれないし。なんか彼女っていうより、うるさい母親みてー」
「……」
「俺はさ、ただなぁごと楽しくやりたいだけなんだよ。怒られたり叱られたり、説教されたくない。一体いつから、なぁごはこうなっちゃったんだ?」
「……もういい」
立ち上がったなごみに、さすがの寿も驚いて顔を上げる。ジャケットを羽織り、カバンを持ち上げて吐き捨てた。
「今日は帰る」
「お、おい、どうしたんだよ、なぁご……」
一応引き止める言葉は出てきたが、それだけだった。乱暴にドアを閉めて寿の部屋を飛び出し、アパートの階段を駆け下りる。
路地をひとつ曲がったところで振り返るが、寿は追いかけてきてくれなかった。涙は出ない。ただ、行き場のない感情が胸の中でぐるぐるしていた。
自分は寿に疎まれている。うるさい、母親みたい、説教臭いと。確かに最近の自分が、寿の言う母親みたいな彼女になっていることは否めない。
でも、それの何が悪いのだ。寿のことを思っているからこそ厳しくなれるし、愛情があるから時には辛い言葉も飛び出す。寿はそれを受け止めようとしない。耳を痛くするものは、跳ねのけるだけ。いつからこんな二人になってしまったんだろう。
寿を好きになったのは、夢に向かって頑張っている姿が格好よかったからだ。
自分もCGクリエイターの夢を抱えて上京してきたから、ミュージシャンの夢に向かって歩んでいる寿と一緒にいるのは、心地よかった。
互いに夢を語り合い、応援し合い、二人の夢が実現した明るい未来を思い描いて、手を握り合った。あの頃は寿も今とは違って、やる気と活気に満ち溢れたた若者だった。今よりも、出会ったばかりの二十二歳の寿のほうが、むしろ大人だったかもしれない。
夢を叶えたなごみに対し、寿は夢を手放した。そして挫折を成長に変えることもせず、みるみるその魂は堕落していった。今の寿には、なごみも男性的な魅力を感じることができない。
「……マジでもう潮時、かなぁ」
独り言を呟くと、スマホがぶるんと震えた。画面を見るとラインに通知が一件。差出人は椿だ。
『木曜日、四対四で合コンセッティングしちゃった!夜八時からだから、明けといてね!視野を広げよう!!』
まったく椿ったら、なんて勝手なことを。口の中で呟きつつも、なごみの指は返信を打ち始める。その横顔には、確かな決意が漲っていた。
『木曜八時ね、OK。セッティングありがとう』