なごみと椿が勤めるオフィスは、都心の一等地に
専門学校を卒業してアートディレクターである今澤の下で働き始めたのはもう六年も前のことだが、当時に比べれば会社の規模は格段に大きくなり、オフィスもこぢんまりとしたものから今の広々としたところに引っ越した。
過去六年間、今澤デザイン事務所は順風満帆に業績を伸ばし続けている。しかしそれに対するなごみの貢献など微々たるもので、今澤自身の才能と実力と経営手腕によるところが大きいのだろう。
「津幡さん、ちょっと」
「はい」
デスクにかけるなり今澤に手招きされ、思わず身構えた。先刻聞かれたかもしれない会話のことが気になる。椿は何食わぬ顔でパソコンに向かっていた。
「このクライアント、次回から津幡さんに任せたいと思ってるんだけど、できる?」
「え……でもここって、ずっと今澤さんが担当してきましたよね?」
「うん。けど、そろそろイメチェンっていうか、若くて才能ある、斬新なものを作ってくれる人に任せたいって先方の要望でね。津幡さんならぴったりだと思うんだけど、どう?」
それは今澤に間接的に自分のことを若く才能ある、斬新なものを作れるCGクリエイターだと言われているのと同じで、嬉しさで頬が熱くなる。背筋を伸ばし、胸を張った。
「やらせて頂きます」
「うん、それでこそ津幡さんだ。向こうにもそう返事しておくから、頼むよ」
「はい」
話は終わった。責任ある仕事を任された心地よい重圧を胸に感じながら自分のデスクに戻ろうとすると、今澤が呼び止める。さっきと違って今度は声を潜め、内緒話のようになごみの耳にやや顔を寄せる。
「ところでさっきのレストランでの会話、聞こえちゃったんだよね。悪いけど」
「……」
「君のことだからもちろん、仕事とプライベートを混同することはないと思うが……」
「もちろんです」
心の内側を覗かれた気恥ずかしさに耐えながら、きっぱりと声を出した。そんななごみに今澤が優しく目を細める。上司ではなく、一人の男としての素顔が垣間見える。
「僕も仕事とプライベートは別の人間だ。これ、ラインのID。仕事用のメールとは別で、何か困ったことがあったらこっちに連絡して、力になれると思う」
「……ありがとうございます」
小声なので、きっと同僚たちには聞こえていない。それでも気になって、ついオフィス内をぐるりと見渡してしまう。ラインのIDをメモにして渡された、ただそれだけ。別にそれだけのことだ。後ろめたくも何ともない。
他の同僚は誰も気付いていなくてもやはり椿だけは目ざとくて、なごみが自分のデスクに戻るなり隣から抑えた声で話しかけてきた。
「ねぇ、今澤さんと何コソコソ話してたの」
「コソコソって、人聞きの悪い。ただラインのIDを教えてもらっただけ」
隠せば却って、妙なことをしている気になる。あっさり打ち明けてしまうと、椿がわぁ、と大袈裟に目を輝かせた。
「すごいねなごみ、視野を広げようとしたら早速チャンス到来だ」
「今澤さんはここの社長だよ? 大体いくつ歳が離れてると思ってるの」
「それがどうしたっていうのよ。なごみ、ずっと今澤さんに憧れてたんでしょ。チャンスじゃん」
憧れていたと言えば、憧れていた。でもそれは女子中学生が学校で一番かっこいい先輩に抱くようなほのかなときめきに似たもので、恋と呼べるほど立派なものじゃない。
なごみにとっての今澤は、あくまで上司であり社長であり、仕事上の理想となるべき人だ。
それに今澤のラインIDを知っているのは、自分だけじゃないだろう。
「社員と社長の距離が近い会社」をモットーにしている今澤は部下たちと気楽に飲みに行くし、なごみたち女性社員にも友だちのように接する。
今澤に優しくされて、つい勘違いしてしまう若い女の子も時々いるくらいだ。自分はそういう女の子にはならない。もうそんな単純に恋に落ちる歳でもない。
だけど実際、寿とだけずっと付き合ってきた自分は年齢に見合う恋愛経験を積んでいないのではないか。いや、そんなこと考えたって仕方ない。今は仕事に集中しなければ。
でも、集中力は複雑に絡み合った思考の糸に邪魔されて、仕事はほとんどはかどらなかった。