二十六年と十一ヶ月生きてきたが、今までに
学生の頃はクラスに「ナツミ」や「ナツコ」がいない限り「なっちゃん」、社会人になると親しい友だちからは「なごみ」と、ごく普通の何の
でも付き合い始めた八年前からずっと、寿
人前でも「なぁご」なので、最初のうちはバカップルみたいだからやめてほしいと思ったけれど、他の誰にも呼ばれたことのない呼び方をされるのは自分たちの親密さを表しているようで、慣れれば嬉しかった。
「にゃあご」
別にネコが鳴いているわけではない。寿が寝起きの状態で布団の中からなごみを呼ぶと、ネコが飼い主にすり寄って甘えるような音になってしまうのだ。
なごみはフライパンをかき回す手を忙しく動かしながら、目だけ寿に移す。
フライパンの上ではスクランブルエッグが固まりかけ、その隣ではインスタントコーヒーを
「起きた?」
「うん……今にゃん時?」
またネコみたいな、鼻にかかる声だ。なごみはフライパンの柄を握ったまま、スヌーピーの絵がついた壁の時計をちらっと見る。
「七時十五分」
「じゃああと五分。二十分に起きる」
「だーめ。この間もそんなこと言ってて遅刻したんでしょ」
「別にいいよ、遅刻ぐらい。てかむしろ休みたいし。会社行くのだりーなぁ、あーマジ欝」
ふあぁ、と欠伸をしてごろんとなごみに背を向ける。休みたい、だるい、欝。
朝から目の前でそんな言葉ばかり吐かれたら、なごみだってやる気がしぼんでしまうことに寿は思い至らないんだろうか。
まぁ、いつものことだ。もう寿のこんな態度には慣れっこだし、いちいち腹を立ててもしょうがない。冷静に対応しなくては。
スクランブルエッグを皿に盛り付け、薬缶の火を止めると、まだ毛布にくるまっているイモムシ状態の寿に近寄った。
「ダメ、会社はちゃんと行くの。社会人としてきちんとしなきゃ」
「あーもう、最近なぁごっていつもそういうのばっか言うよなぁ。優しさがないっつーか」
「甘くするのと、優しいのとは違うでしょ。ほら、さっさと起きてっ」
乱暴に毛布をめくり上げると寿はさぶっ、と胎児のように中肉中背の身体を丸める。
夕べセックスしてそのまま眠ってしまったから、何ひとつ身につけていない。
引き出しの中からなごみがアイロンをかけたワイシャツと、なごみが買ったトランクスと、なごみがつくろった靴下を取り出し、カーテンレールに掛けてあった背広とセットにして寿に押しやる。
まったく、わたしってなんていい彼女なんだろう。明日からでも奥さんに昇格できそうなのに、寿ときたらこんないい女にいつまでプロポーズしないつもりなのか。
ようやくベッドから這い出した寿は、眠そうにもそもそと寝癖だらけの頭をかき回しながら、着替えを始める。
その間になごみは
「あー、マジで行きたくねーな。台風でも来て電車止まってくれたらいいのに」
「またそんなこと言って。何でそんなに会社に行きたくないのよ」
「
「怒られるから会社行きたくないなんて、甘ったれてるんじゃないの! 寿、もうすぐ三十でしょ? ほんっといつまでも新入社員の気分なんだから」
冷静でいるよう努めているつもりが、つい言葉がきつくなる。ハッと気がついた時には、寿は目やにのついた目をだるそうに細めて、テーブルの向こう側のなごみを見ていた。
「何かなぁご、説教臭い」
「……」
「最近のお前って、母親みたいだよなぁ。あぁ嫌だ嫌だ。うるさい田舎の母ちゃん思い出すし」
「……仕事忙しいから、先に行く。洗いもの、やっといて」
葱と豆腐を入れたみそ汁はまだ温かいままで半分以上残っていたが、箸を置いて立ち上がった。
寿は残したみそ汁を三角コーナーに流しているなごみには興味なさそうに、テレビに映し出される朝のニュースを見ていた。首相の発言が物議をかもし、コメンテーターが昨今の政治家の情けなさを嘆いていた。
化粧はもう済ませた。歯磨きをして唇にリップを塗り、カバン片手に家を出る。
朝の住宅街は清清しい空気と新鮮な陽光に満ちているが、駅を目指すスーツ姿の男や女の横顔は、みんな疲れきっていて薄暗い。
そりゃ、絵が好きだという自分の特質を生かして、CGクリエイターという(まあ見た目には)華やかな職に就いているなごみとは違い、ミュージシャンの夢を諦めてオフィス機器を扱う会社の営業部に入った寿とは、仕事に対する思いもモチベーションも全然違うだろう。
そもそも自分のように仕事に生きがいを持ち、仕事を楽しんでいる人間は
別に好きなことでなくても面白くなくても、生活のためと割り切って毎朝会社に行く。仕事とは、社会人とは、そういうものだ。理屈ではわかる。
それでも相手が寿だから、自分が生涯を共にしたいと思っている大切なパートナーだから、望んでしまう。
寿にももう少し社会人としての自覚を持って、意欲的に仕事に取り組んでほしいと。自分が背負っているものに、ちゃんと向き合ってほしいと。
しかし現実には寿はいつまで経っても青二才の心を持ったぐうたらで、「若者」を卒業できない。
自分の仕事に対しても人生に対してもそしてなごみとの将来に対しても、いい加減にしか構えていない。少なくともなごみには、そう見える。
「今年三十なんだけどなぁ」
電車を待つプラットホームで思わず呟いたなごみを、隣に立っていた中年男性が不思議そうに見やった。