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ウェスティア譚 Ⅲ

痛い…どれ程の高さから落ちたんだろうか。体を動かすことができないほどの激痛は肺にも適応されるようで息を吸うたびに体をつん裂くような激痛が電流となり走り抜けた。

あちらの世界では急性アルコール中毒で死に、こちらの世界は来て一日で濡れ衣をかけられて追いかけられ崖から落ちて死ぬのかと薄れて行く意識の中で自分の愚かさを嘆いた。もしやこちらの世界で死ねばあちらの世界に戻れるのではないかと言う淡い期待を残して降りてきた瞼に抗うことをやめ眼を閉じることとする。









・ ・ ・








「…何?外に行きたい?」


人里から離れたという表現がぴったりと合う場所に立っている外見の寂れた洋館の中で男はそう言葉を発する。

掠れて表紙の文字がわからないほどになった古めかしく分厚い本をパタンと閉じると自分の足にまとわりついてきた幼子2人に目を向けた。

2人とも前髪を三つ編みにし、それぞれ左右の毛をだらりと下ろした灰白の幼子たち。

そう、彼らこそが夕方カオル子が身を挺して庇った子供たちだった。

本を読む男の傍のローテーブルには出来立てなのだろう。ツヤめかしく光り湯気を立てる美味しそうなアップルパイが1ホール乗っていた。


「昼に石を投げられたのにまだ外に出る心持ちはあるんだな」

「…うん……。ベル様とお散歩したいから。」

「……うん…。ベル様とお散歩したい。」

「仕方のない子供たちだ。じゃあ行こうか。お靴を履きなさい」


そう言って男が柔らかそうな赤いソファーから立ち上がれば双子は心底嬉しそうにくすくすと笑みを湛えてパタパタ靴を履き玄関へと走る。重い扉の前に2人で立てばそれをギィっと押して月の光の道を作り出した。早く早くと言わんばかりに。


「待て待て。今行くから。」


男はスリッパを脱ぎ、先の尖った革靴に足を入れると黒いレースの施された日傘をもつ。双子が作り出したドアの隙間を皮の手袋をした大きな手で押し開くとコツコツと規則正しい音を立てて洋館の外へ歩き出した。


夜になれば森は一瞬で昼間の温厚な様子から姿を変える。影だけになり塗りつぶされた木の輪郭は鋭利な刃物を連想させるものだし、風の音と木の葉の擦れ合う音は不安感を倍増させる。ただ夜の闇に迎えられた物ならば、夜の闇に許されたものならば見える景色は変わってくるだろう。冷たい風は翌日の空模様をお裾分けしてくれるし真っ暗な森が囲って見せる空の空洞には星が宝石よりも何倍も美しく瞬いている。

そんな道を幼子は落ちた葉っぱを拾ったり一際輝く石ころを拾い歩いていく。その後ろを長身の『ベル様』と呼ばれた男は寄り添うようにしみじみと冷たい夜の風を肺に吸い込みながら歩いていく。彼は美しい星空をいつも日傘の中から眺めていた。

彼らに取って夜の外出は至極当たり前のことであり、こうして幼子の言い出しで3人で満点の星天のもとを歩くのは日常の一コマにすぎない。

ただ今日は彼らの日常の一コマに一滴の黒いインクが垂れていた。


「ぁ…。」

「…ぁ。」

「ん?どうした。何か見つけたか?」


いつもの散歩道の高く聳え立つ木々を整列させるかのように流れる小川にそのインクシミはあった。何やらボロ雑巾のようなそこそこ大きさのある塊が半分小川に浸かった状態でそこに居る。


「なんだろうなあれは。ここまでの大きさのゴミならば流れてくることはあまりないのに。」

「……見てきてもいい?」

「……見てきたいの。」

「川に落ちないようにな。」


男は好きにさせておくらしい。ただ危ないため軽い助言程度の口出しはしてトコトコと走っていった双子を追いかけていく。

こんな小さな小川にここまでサイズのある障害物が流れてくるだろうか、いや雨が降っていたわけでもないのにこの規模の小川には無理だ。

それでは上からだろうか。ほんの稀にこのがけの上にある村から人が落ちてくることはある。でもそうすればもっと上の人間は騒ぎ立てるだろうからそれもないのかもしれない。熊か何かが死んでもしたのかと思っていたが珍しい双子の慌てたような声に足を早めてその障害物のもとへと向かった。

そこには血に塗れ、落ちてきた最中に絡まったのであろう枝や木の葉を所々体に巻き付けてうつ伏せで疼くまるミルクティー色の髪をした人間が横たわっていたのである。


「……この人……。」

「……この髪の毛……。」

「ベル様、この人あの人かも…。」

「ベル様、この人りんご拾ってくれたかも…。」

「ん?どういうことだ?」

「……モノたち、お買い物した時の…」

「……ジノたち、お買い物した時の人…」

「嗚呼、珍しく庇ってくれた人間か。」


双子が頭に枝をつけて買い物から帰ってきた時に確かそんな人間がいた話を聞いた。珍しく撫でられたことに驚きつつも何処か嬉しそうでもあった表情を見せたのが印象的だった。


「上から落ちたのか落とされたのか。どちらにしてもあの高さからならもう死んでいるだろう」

「……死んじゃった、?」

「……死んじゃったかな…」

「お前たちが今拾ってきた中で綺麗な石でも供えてやればいいさ。噂を知って庇うようなお人好しにはきっと喜ばれると思うが。」

「…そうする……。」

「…そうする…… 。」


双子は倒れた人の髪の毛の上にそれぞれ一つずつ拾った綺麗な石を乗せてしゃがんだ。きっとこれからお礼でもいうのだろうと思っていたが双子から出た言葉は意外なモノだった。


「……ベル様、この人息してる……。」

「……ベル様、落ちたのに生きてる……。」

「ありえない、そんな馬鹿な、この高さだぞ。」


双子のところに自身もしゃがみ込み手袋を片方外せば顔のところに手をかざしてみる。ありえないと思っていることもどうやら実際起こるらしい。弱くではあるが暖かい息が掠れ掠れ手に伝わってきた。


「本当だ。辛うじて、と言った状態だがまだ息がある。」

「…ベル様……」

「なんだい?」

「…ベル様この人助けられる…?」

「…ベル様この人助ける…?」

「この状態ならまだ助けられるが助けたいのか?」

「…うん…。」

「うん……。」

「助けた後はどうする?」

「…わからないけど、」

「…わかんないけど。」

「ありがとうって言いたい」


と双子は男に目を合わせて言った。

助ける気はなかったが双子が世話になったようだしほんの気まぐれだ。ここで見つけたのも何かの縁だろうと怪我人にする対応としては少し雑やもしれないが肩にひょいと抱え上げ、来た散歩道をゆっくりゆっくり戻っていった。


「…重い。」

「……ベル様頑張って、」

「……ベル様頑張れ、」


空の高いところで輝く星はそんな情景を静かに瞬き見つめていた。







・・・・・・






体が熱いわ…

夢も見ないような熟睡の状態からほんの少し薄ぼんやりと意識が浮上する。

それは夢かはたまた現実なのか。何やら全身真っ黒の人影が近づいてくるのがほんの微かに空いた視界でわかった。その姿は死神だろうか。今度こそ何もない無になり天に登ることが許されたのであろうか。その影はおそらく今自分の額に触れている。すると突然触れられたところからじわじわと熱が体に広がっていく様な不思議な感覚に襲われた。頭の先から徐々に熱が伝わり爪先まで熱が行き渡ったところで急にふ、と体が軽くなる。

なんだったんだろうか。そこでまたカオル子の意識は深い闇の中へ落ちていった。















「…ベル様…どうですか……?」

「…ベル様…大丈夫だった…?」

「嗚呼多分もう大丈夫だ。まあ治癒ではないから骨折や傷は自分で治してもらないといけないが。」

「…なんで落ちてだいじょおぶだったの?」

「…なんで落ちて生きてたの?」

「恐らく運よく木の中に落ちたんだろう。それで枝や葉がクッションになって少しずつ衝撃を吸収したのかもしれないね。」

「…よかったねおねえさん、」

「…よかったねおねいさん」

「ん?この人間は男だが?」

「…でもおねえさんなの…」

「…この人おねいさん…。」

「よくわからないがお前たちがそういうならそうなんだろうな。それにしてもお前たちが他人のことを心配するだなんて珍しいじゃないか。どうしてこの人間に固執する?」

「わかんない…」

「…わかんないけど…」

「……。そうか、まあいつかわかる日が来るかもしれない。」


カオル子を気まぐれに助けた黒髪オールバックの男は彼女を寝かせた寝台から用は済んだと離れ部屋から立ち去ろうと部屋の扉を開けた。双子を待っているのだろう、扉を開けたまままだ部屋を出ない。だが双子は丸い小さな椅子をそれぞれ引っ張ってきて寝台の横に並べ、その椅子に立ち上がって心配そうに彼女の顔を覗き込み動こうとしない。


「そんなに見ていても目が覚めるわけではない。きっと死なないからおいで。」

「…どれくらいで起きるかな」

「……いつ起きるかな…」

「さあな。まあ脳が死んでいなかったら一週間もすれば目を覚ますはずさ。さぁおいで。」


その言葉を聞くと心配そうな視線を残したまま包帯や薬の入った瓶を回収して男の待つ扉の前まで小さな足を動かし、駆け足で寄った。


「……ベル様、」

「…ベル様…、」

「なんだい?」

「…時々様子を見ても怒らない?」

「…見にきたらベル様怒る?」

「っはははは、僕がそんなことで怒ると思っていたのかい?そんなに懐は狭くないさ。」


形の良い唇をパカりと開けば真っ赤な口内が外気に晒される。それと共に軽やかな笑い声が彼の口から出た。嘲笑するような笑みではなく双子に対する慈しみとほんの少しの愛おしさが混ざった笑みだった。その笑い声から良いと判断したのだろう。双子は男によって蝋燭の火が落とされた暗い部屋で眠る彼女に『おやすみ…』と小さく声を漏らし、その部屋を後にした。


「さぁ、お前たちももう眠る時間だよ。布団に行きなさい。」


廊下に出て子供たちに向き直ると彼はそう言った。

時計はとっくに12時を回っており普通の子供ならばもう眠気に負けてねむっている時間であろう。だがこの双子がこの時間に眠ることは彼らが散歩をすることと同じように当たり前らしく、素直に頷いて手に持った包帯や薬をしゃがんだ男に手渡した。


「ベル様、今日もご本読んで…」

「…ベル様読んで、」

「昨日の続きからか?それとも違う本か?」

「…きのおと同じご本がいい」

「…続き、続き気になる…」

「わかったわかった。じゃあ僕はこれを片付けて本を用意したら行くからね。お前たちは先にベッドに行っていなさい。」


頷いてパタパタと暗い階段をかけ登って行くこの子供たち。白いふわふわの髪の毛をもった方はモノ・ハート、灰色がかった硬い髪の毛の持ち主はジノ・ハートと言った。外見からもわかるように2人は背丈も顔立ちも瓜二つであって双子であるということが初対面の人間にもわかるだろう。

双子はお互い競争をするでもなく仲良く寝室へと入り双子2人寝てもまだまだ広すぎる大きな天蓋付きベッドによじ登った。自分のお気に入りのクッションがやはり世界が違くとも幼子だとしてもあるのだろう。いくつか散らばっているクッションの中から迷うことなく一つを手繰り寄せてふかふかの布団へと潜り込んだ。

同じタイミングで蝋燭に火を灯した燭台を持ちながら男が寝室に入ってくる。


「支度はいいかい?」


ベッドの脇の丸いテーブルに燭台が置かれれば部屋は橙色に赤みがかる。

その光と大好きな男の声を聞くだけでもう双子は寝る準備ができてしまったらしく目を擦りながらこくこくと頷いた。


「それじゃあ昨日の続きから…。」


支度ができた双子に余りすぎたベッドの空間に男がピッタリと入り込み、双子の頬まで滑らかそうな生地の布団をかけた。その男は上半身だけベッドの骨組みに寄りかかって起き、下半身を布団の中に収める。なるほど、いつも3人で寝ているらしく男に双子たちは擦り寄りくっついていく。それでもまだベッドは余裕なほどに広かった。

カオル子を担ぎ治療するためこの屋敷に漢字の通り担ぎこみ、今はこうして双子に本を読み聞かせているオールバックの男。彼の本の文字を追う瞳は柘榴の様に赤く、ルビーの様に燭台に灯った炎を反射しててらてらと光っている。

彼こそがこの双子の保護者であり、マディルドの人間から吸血鬼と噂されている人里離れたこの屋敷の主、ベルベット・ハートであった。

ベルベットの静かで、低く、心地よい声が音の波となり、3人の寝室を満たしていく。

昨日の続きから幾分かページを読み進めているともぞもぞと毛虫の様に動いていた双子の可愛らしい動きも止まり、その代わりに規則正しい寝息が小さく聞こえ始めた。それに気がついたベルベットは本を閉じ夢に誘われた子供らの額に触れるだけの口づけを落とし双子を起こさないように静かに安らぎの空間から降りると火を灯した燭台をそっと持ち上げ部屋を後にした。

足音はスリッパと全ての廊下に敷かれたカーペットに吸収されてぽすぽすと小さく音を作りだしていく。カーペットをスリッパが擦る感覚と音を感じ、階段を降りる彼と共に蝋燭の暖かなオレンジ色の光も移動する。そのオレンジ色の中に浮かび上がった影は自分も様子を見ておこうと双子が世話になったという男を寝かせた客間に進んだ。

『客室』と掘られたドアプレートのぶら下がるドアを押せばきぃ……と小さく声を上げて部屋と廊下を仕切るドアが口を開ける。その部屋に足をすすめればポッカリ開いた口のような漆黒の部屋にオレンジの光は食べられてしまったかのように吸い込まれて入っていった。


「ここに住み始めてから初めて客室が機能したな」


埃っぽいと思っていたが使われていなかったその部屋は時が止まったように家具を配置した時から何も姿を変えておらず突然の来客であるカオル子を寝かせるには丁度よかった。

体のあちこちが切れてこの人間の白い服を斑模様に染め上げていて、服を引っぺがして現れた無惨な傷口やアザたちにたまらず双子たちが小さく声を漏らしていたことが思い出される。

明かりの下に照らされた人間の肌は女の様に白く、そして男の骨格なのにも関わらず華奢なことに双子と共に介抱を始めた時から確かな違和感が自分の中にあった。

今こうして1人この人間を見下ろしているがやはり違和感は拭えない。

この崖の上に住む男たちは朝から日が沈むまで太陽の下で土木作業なり建築なり畑仕事なりをしており肌は浅黒く焼けている。生まれつき色の白い男など個人差はあるが生まれたての子供ではない限りは皆そうなはず。それに体には筋肉や、仕事帰りに飲む酒類のせいで贅肉や脂肪がついている。だが目の前で深く眠っているこの男は細く華奢で女の様に色が白かった。いや、女でも建物から出ない貴族のお嬢さんや病人の女でなければここまで白い肌ではない。ということはこの男は貴族の人間なのだろうか。貴族の人間はこんな辺鄙な田舎で崖から落ちて死にかけることになるのだろうか。いやならない。常に従者がついているだろうし宿を取るにしてももっと都心に行くだろう。

この人間が一体どこの誰でどんな人間なのだろうと自分の興味に従い、双子が寝静まった今日課である読書を辞めてこの人間をもっと詳しく調べてみることにしたのだ。

寝息を聴きながら包帯だらけの人間に顔を近づけてみるとどうやらアクセサリーを幾つか身につけているよう。ただ不可解なことにネックレス、ピアス、ブレスレット。どれもこれもこの国でも他所の国でも見たことのない作りをしていた。チェーンの様な作りのネックレスはこの国にもある。ただこんなに細かく細くチェーンを作ったものは見たことがない。それにピアス。幾つかつけているようで小さな宝石があしらわれたものと金のリング状のものがついているがこのリングはどうやってつけているのだろう。少し引っ張ってみたが耳を貫通している。極め付けはブレスレットだ。外してよく見てみようとしたが手首のサイズの穴に手を通してあって抜けない。どうやって手にはめたのか疑問でしかない。

次に体毛の色だ。頭髪はミルクティーの様なまろやかな色なのにも関わらず、細い眉毛も、目を瞑ることで伏せられた長いまつ毛も、下生えも。頭髪以外の体毛全ては黒だった。


「なぜ頭髪の色だけ違うんだ。突然変異個体か?」


つい独り言をこぼしてしまう程、不気味なくらいにわからないことが多すぎる。そんな目の前の人間に彼の興味は加速していく。何か他にこの人間を知る手がかりはないだろうか。脱がせた服のことを思い出して辺りを見渡せば半、引き裂くように強引に引っぺがした服たちはベッドの足元に丸めてあった。

白いブラウス。この生地は最近ウェスティアで流行っているものだ。軽く通気性も良い為だ。それにこのデザインはこの崖の上の服屋の娘が作ったデザインだろう。物語に出てくる王子たちが皆揃って来ている様なものだった。これには特段違和感を抱かない。

次にパンツ。両足の膝のところがどちらも同じように不規則に破れていた。何故縫わないのか、何故別のものを履かなかったのか。腰回りを見てみると伸びる。何故だ?それにに大きめの白いゴミがついている。取らないのか?引っ張ってみても取れない。それにこのゴミ、小さな文字と数字が書いてある。


「綿95%、ポリウレタン5%、中国製…。このパーセンテージはなんのパーセンテージなんだ?ポリウレタン?中国……知らない単語。」


何故この人間は洋服の、しかも肌に触れる面にわざわざこんな付箋を縫い付けているんだ。阿保じゃないのか?

アホなパンツにもなるほど、どうやらしっかりポケットはついているらしい。何か入っていないかとなんの気なそにポケットの中身をひっくり返した。そこから顔を覗かせたのは札束と小銭が2枚。


「…本当に何者なんだこの人間は。」


あまり口は良くないがお世辞にもマディルドの人々は裕福ではない。こんなみるからに男として仕事を果たしそうもない人間がこんな大金を持ち歩いているのは何故か。いくら考えてみても夜は更けていくばかりで答えなど道引き出すことは自身の脳を持ってしても無理だった。それほどまでにこの目の前の人間は異質だったのである。


「疲れた…わからないことが多すぎてイライラする。」


ついに顰めっ面をしてひたすらに考え事をしていた彼は思考を放棄して客室に備え付けられた椅子にどかっと腰掛けた。休息にでもするのだろう。小さく口笛を鳴らせば信じられないことに先導者を持たぬ銀色のワゴンが、湯気を立てる紅茶が入ったティーカップとティーポットを乗せて廊下から部屋へと現れた。ただそんな異質な事も彼にとっては日常の一コマに過ぎずなんの恐怖も不可思議な感情も持ち合わせる事なく、さも当然かのようにワゴンからティーカップを摘み上げてずる、と音を立てて一口啜りあげた。

人の体温よりも遥かに高い温度を持った液体が喉を通り胃に落ちてくる感覚を感じながらほぅ、と一つのため息を漏らす。日常の世界に戻り込んだ事で幾分か興味に身を焦がされる思いからは立ち直れたのであろう。くしゃりといつもの癖で後ろに流している頭髪をかけば入浴後の石鹸の香りが頭上から降りてきた。


「……早く目を覚ましてもらいたいものだね。この興味が収まらないと暫くは安眠できそうにない。」


どうやら自身も双子と同じでこの人間の覚醒を心待ちにしているらしい。ただ彼らと違うところは純粋な心配ではなく自分の興味や疑問に、早く答えてもらいたいからという些か不純な動機でそう願っていることだ。

一杯だけ飲んだ紅茶をワゴンに返せばワゴンはこちらの意を汲んで廊下を引き返していく。そろそろ自分も眠ってしまおう。

軋む椅子から立ち上がればすっかり短くなってしまった蝋燭が灯る燭台を持ち客室から出ていく。また光を失った客室はポッカリと開いた洞窟の入り口の様に色彩を黒に支配される。ただ月が動いたのであろう。ベルベットが部屋を訪れた時とは違い大きなガラス張りの窓からは月光の鋭い光が差し込んでいた。

月の光はベッドで眠るカオル子の顔を眺めるかのように人のいなくなった部屋に存在し続けていた。




第3話 (終)

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