目が覚めたら、炯さんの腕の中にいた。
「おはよう、凛音。
身体、つらくないか?」
「……はい」
彼は私を気遣ってくれるが、目の下にはくっきりとクマが浮き出ている。
もしかして、眠れていないんだろうか。
「腹、減ってないか?
それとも喉が渇いてる?」
炯さんは私を心配しているが、私は彼が心配になった。
「なんか持ってくるな。
凛音はまだ、寝ていていいからな」
「あの、炯さん!」
寝室を出ていこうとした彼を止める。
「その。
……お手洗いに、行きたいので」
こんなことを言うのは恥ずかしいが、そうでもしないとこのまま今日はベッドに拘束されそうだ。
「あ、ああ。
そうだな。
どうぞ」
ドアを押さえ、彼が道を譲ってくれたので、ベッドを下りてお手洗いへ向かう。
用事を済ませながら目に入ってきた私の手足には、包帯が巻いてあった。
気づくと同時に、そこがじんじんと鈍く痛み出す。
「けっこう擦れてたもんなー」
昨日は異常事態だったから感じていなかったが、もしかしてけっこう酷い傷になっていたりするんだろうか。
痕にならなきゃいいんだけれど。
トイレを出たら、炯さんが壁に寄りかかって待っていた。
「えっと……」
もしかしてそんなに切羽詰まっていたんだろうか。
しかし、この家にはトイレが二カ所ある。
「大丈夫か?
どこか痛いとかないか?」
過剰なくらい彼は心配してくるが、昨日の今日ならそうなるか。
「大丈夫ですよ」
手首と足首は痛むが、平気だと笑顔を作る。
これ以上、彼を心配させたくない。
「食欲はあるか」
「そうですね……」
あると答えたいが、まったく食べたいという気が起こらなかった。
炯さんと一緒にこの家に帰ってきて落ち着いたと思っていたが、心のダメージはそう簡単にはいかないらしい。
「……すみません、ないです」
情けなく笑って顔を見ると、みるみる彼の表情が曇っていった。
「凛音が謝る必要ないだろ。
ベッドで待ってろ、なんか飲むもの持ってくる」
「……はい」
僅かな距離なのに炯さんは私をベッドにまで送り届け、寝室を出ていった。
「うーっ」
こんなに炯さんに心配をかけている自分が情けない。
昨日だって、初めてのお祭りではしゃいで私がはぐれたのが、そもそも悪かったんだし。
「凛音」
少しして炯さんは大きめのグラスを手に戻ってきた。
「これなら飲めるか?」
「ありがとうございます」
受け取ったグラスの中からは、甘い桃の香りがしている。
桃のスムージーなのかな。
ストローを咥えてひとくち。
桃とヨーグルトなのか、甘酸っぱい味が私を元気にしてくれる。
ふと見ると炯さんが、じっと私を見ていた。
「炯さん?」
「あ、いや。
飲めたんならよかった」
慌てて笑って取り繕ってきたが、なんだったんだろう?
「炯さんは朝食、食べないんですか?」
「あ、俺か?
俺はそれ作りながら、端を摘まんだからいい」
などと彼は笑っているが、それは反対に心配です……。
スムージーを飲んだあと、炯さんもベッドに上がって私を抱き締めてくれた。
まだダメージの抜けきらない私としてはありがたいけれど、いいのかな。
「炯さん。
お仕事はいいんですか?」
別に、仕事に行けと催促しているわけではない。
それよりも今は、こうして一緒にいてほしい。
しかし、ワーカーホリック気味な彼が、休みでもないのに家に居るのは気になる。
「しばらく休みにした。
凛音もそのほうがいいだろ」
「……ありがとうございます」
甘えるように彼の胸に顔をうずめる。
いいのかな、本当に。
私のために、そんな無理をさせて。
「……その。
昨日ははしゃいではぐれてしまって、すみませんでした」
私がはぐれたりしなければ、あんな危険な目には遭わなかった。
炯さんをこんなに心配させずに済んだ。
後悔してもしきれない。
「どうして凛音が謝るんだ?
悪いのはアイツだろ」
「でも……」
それでも、申し訳ない気持ちが先に立つ。
「それに悪いのは俺だ。
俺が凛音から手を離したりしたから……!」
強い声がして、思わずその顔を見上げていた。
炯さんの顔は深い後悔で染まっていた。
「炯さん……」
そっと脇の下に腕を入れ、広い彼の背中を抱き締め返す。
「炯さんは悪くないですよ。
仕方なかったんです」
あの人混みではぐれるなというほうが無理だ。
私が彼とはぐれたのは仕方なかった。
彼が私を見失ったのも仕方なかった。
ただ、運が悪いことにそれを悪い人間が利用した。
それだけなのだ。
「仕方なかった、か」
「はい、仕方なかったんです」
それで片付けていいのかわからない。
でもこれは、そうするのがいいのだ。
炯さんは私を子供のように膝の上に抱き上げて、ずっと髪を撫でている。
それが酷く落ち着いて、意識がとろとろと溶けていった。
「……なあ、凛音」
「……はい」
「婚約、破棄しようか」
「はいーっ?」
さらりと爆弾発言され、さすがに目が覚めた。
「なに、言ってるんですか?」
炯さんは本気で言っているんだろうか。
信じられなくて彼の顔を見る。
彼は私に視線は向けていたが、私ではなくどこか遠くを見ていた。
「俺といればまた、凛音を危険な目に遭わせる。
それでなくても昨日、怖い思いをさせた。
俺よりももっと、凛音を幸せにしてくれるヤツと……」
「なにを言ってるんですか!」
炯さんの顔を両手で挟み、思いっきりパチンと叩く。
「私に悪い遊びをたくさん教えてくださるんでしょう?
私はまだまだ、遊び足りないですよ。
炯さんじゃなきゃ、誰が教えてくれるんですか」
「そう……だな」
あっけに取られている彼に、さらに捲したてる。
「それとも炯さんにとって私は、そんなに簡単に手放せる存在なんですか」
「それ、は……」
苦しそうに彼の表情が歪む。
「私を幸せにできるのはもう、炯さん以外いないのに……」
私はこんなに彼を想っているのに、彼にとって私はそれくらいの存在だったんだろうか。
ズタズタに切り裂かれるように胸が痛い。
耐えきれなくなった涙がぽろりと、頬を転がり落ちていった。
「……ごめん」
伸びてきた彼の手が、私の頬を拭う。
「俺ももう、凛音のいない人生なんて考えられない。
でも、俺のせいで凛音を失ったらと考えると、怖くて怖くて堪らないんだ……」
縋るように私を抱き締める腕は小さく震えていた。
こんなにも、もしもの可能性に怯えるほど、炯さんは私を想ってくれている。
そんな彼が、――堪らなく、愛おしい。
「大丈夫ですよ、今回だってなんとかなったじゃないですか」
「でも、次はまにあわないかもしれない」
「私もミドリさんに、護身術を習います」
「相手の男のほうがもっと強いかもしれない」
炯さんの不安は晴れないのか、ただの可能性で否定してくる。
「炯さんは私を、守ってくれないんですか」
「絶対に守るに決まってるだろ!
それでも……」
「だったら、大丈夫です」
彼を抱き締め、いつも私にしてくれるみたいに背中をとんとんと叩く。
「炯さんが絶対に守ってくれるんなら、少しくらい危険な目に遭ったって大丈夫です。
炯さんは絶対に私を守ってくれるんだから、絶対にピンチにまにあうんです。
だから、絶対に大丈夫です」
自分にも言い聞かせるように〝絶対に大丈夫〟と繰り返した。
私はもしこの先、また危険な目に遭って、今度こそ炯さんと会えなくなっても――今度こそ殺されたって、その気持ちがあれば十分だよ。
それにたとえどんな危険が待っていたとしても、炯さん以外の人となんて一緒の人生を歩んでいけない。
私の気持ち、届け……!
「……そうだな」
そっと炯さんの手が、私の頬に触れる。
レンズの向こうの瞳は、濡れて光っていた。
「なにがあっても俺が絶対に凛音を守る。
だから、安心していい」
泣き出しそうに彼が笑う。
「はい」
たぶん、私も同じ顔をして笑っているんだろうな。