目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第40話

目が覚めたら、炯さんの腕の中にいた。


「おはよう、凛音。

身体、つらくないか?」


「……はい」


彼は私を気遣ってくれるが、目の下にはくっきりとクマが浮き出ている。

もしかして、眠れていないんだろうか。


「腹、減ってないか?

それとも喉が渇いてる?」


炯さんは私を心配しているが、私は彼が心配になった。


「なんか持ってくるな。

凛音はまだ、寝ていていいからな」


「あの、炯さん!」


寝室を出ていこうとした彼を止める。


「その。

……お手洗いに、行きたいので」


こんなことを言うのは恥ずかしいが、そうでもしないとこのまま今日はベッドに拘束されそうだ。


「あ、ああ。

そうだな。

どうぞ」


ドアを押さえ、彼が道を譲ってくれたので、ベッドを下りてお手洗いへ向かう。

用事を済ませながら目に入ってきた私の手足には、包帯が巻いてあった。

気づくと同時に、そこがじんじんと鈍く痛み出す。


「けっこう擦れてたもんなー」


昨日は異常事態だったから感じていなかったが、もしかしてけっこう酷い傷になっていたりするんだろうか。

痕にならなきゃいいんだけれど。


トイレを出たら、炯さんが壁に寄りかかって待っていた。


「えっと……」


もしかしてそんなに切羽詰まっていたんだろうか。

しかし、この家にはトイレが二カ所ある。


「大丈夫か?

どこか痛いとかないか?」


過剰なくらい彼は心配してくるが、昨日の今日ならそうなるか。


「大丈夫ですよ」


手首と足首は痛むが、平気だと笑顔を作る。

これ以上、彼を心配させたくない。


「食欲はあるか」


「そうですね……」


あると答えたいが、まったく食べたいという気が起こらなかった。

炯さんと一緒にこの家に帰ってきて落ち着いたと思っていたが、心のダメージはそう簡単にはいかないらしい。


「……すみません、ないです」


情けなく笑って顔を見ると、みるみる彼の表情が曇っていった。


「凛音が謝る必要ないだろ。

ベッドで待ってろ、なんか飲むもの持ってくる」


「……はい」


僅かな距離なのに炯さんは私をベッドにまで送り届け、寝室を出ていった。


「うーっ」


こんなに炯さんに心配をかけている自分が情けない。

昨日だって、初めてのお祭りではしゃいで私がはぐれたのが、そもそも悪かったんだし。


「凛音」


少しして炯さんは大きめのグラスを手に戻ってきた。


「これなら飲めるか?」


「ありがとうございます」


受け取ったグラスの中からは、甘い桃の香りがしている。

桃のスムージーなのかな。


ストローを咥えてひとくち。

桃とヨーグルトなのか、甘酸っぱい味が私を元気にしてくれる。

ふと見ると炯さんが、じっと私を見ていた。


「炯さん?」


「あ、いや。

飲めたんならよかった」


慌てて笑って取り繕ってきたが、なんだったんだろう?


「炯さんは朝食、食べないんですか?」


「あ、俺か?

俺はそれ作りながら、端を摘まんだからいい」


などと彼は笑っているが、それは反対に心配です……。


スムージーを飲んだあと、炯さんもベッドに上がって私を抱き締めてくれた。

まだダメージの抜けきらない私としてはありがたいけれど、いいのかな。


「炯さん。

お仕事はいいんですか?」


別に、仕事に行けと催促しているわけではない。

それよりも今は、こうして一緒にいてほしい。

しかし、ワーカーホリック気味な彼が、休みでもないのに家に居るのは気になる。


「しばらく休みにした。

凛音もそのほうがいいだろ」


「……ありがとうございます」


甘えるように彼の胸に顔をうずめる。

いいのかな、本当に。

私のために、そんな無理をさせて。


「……その。

昨日ははしゃいではぐれてしまって、すみませんでした」


私がはぐれたりしなければ、あんな危険な目には遭わなかった。

炯さんをこんなに心配させずに済んだ。

後悔してもしきれない。


「どうして凛音が謝るんだ?

悪いのはアイツだろ」


「でも……」


それでも、申し訳ない気持ちが先に立つ。


「それに悪いのは俺だ。

俺が凛音から手を離したりしたから……!」


強い声がして、思わずその顔を見上げていた。

炯さんの顔は深い後悔で染まっていた。


「炯さん……」


そっと脇の下に腕を入れ、広い彼の背中を抱き締め返す。


「炯さんは悪くないですよ。

仕方なかったんです」


あの人混みではぐれるなというほうが無理だ。

私が彼とはぐれたのは仕方なかった。

彼が私を見失ったのも仕方なかった。

ただ、運が悪いことにそれを悪い人間が利用した。

それだけなのだ。


「仕方なかった、か」


「はい、仕方なかったんです」


それで片付けていいのかわからない。

でもこれは、そうするのがいいのだ。


炯さんは私を子供のように膝の上に抱き上げて、ずっと髪を撫でている。

それが酷く落ち着いて、意識がとろとろと溶けていった。


「……なあ、凛音」


「……はい」


「婚約、破棄しようか」


「はいーっ?」


さらりと爆弾発言され、さすがに目が覚めた。


「なに、言ってるんですか?」


炯さんは本気で言っているんだろうか。

信じられなくて彼の顔を見る。

彼は私に視線は向けていたが、私ではなくどこか遠くを見ていた。


「俺といればまた、凛音を危険な目に遭わせる。

それでなくても昨日、怖い思いをさせた。

俺よりももっと、凛音を幸せにしてくれるヤツと……」


「なにを言ってるんですか!」


炯さんの顔を両手で挟み、思いっきりパチンと叩く。


「私に悪い遊びをたくさん教えてくださるんでしょう?

私はまだまだ、遊び足りないですよ。

炯さんじゃなきゃ、誰が教えてくれるんですか」


「そう……だな」


あっけに取られている彼に、さらに捲したてる。


「それとも炯さんにとって私は、そんなに簡単に手放せる存在なんですか」


「それ、は……」


苦しそうに彼の表情が歪む。


「私を幸せにできるのはもう、炯さん以外いないのに……」


私はこんなに彼を想っているのに、彼にとって私はそれくらいの存在だったんだろうか。

ズタズタに切り裂かれるように胸が痛い。

耐えきれなくなった涙がぽろりと、頬を転がり落ちていった。


「……ごめん」


伸びてきた彼の手が、私の頬を拭う。


「俺ももう、凛音のいない人生なんて考えられない。

でも、俺のせいで凛音を失ったらと考えると、怖くて怖くて堪らないんだ……」


縋るように私を抱き締める腕は小さく震えていた。

こんなにも、もしもの可能性に怯えるほど、炯さんは私を想ってくれている。

そんな彼が、――堪らなく、愛おしい。


「大丈夫ですよ、今回だってなんとかなったじゃないですか」


「でも、次はまにあわないかもしれない」


「私もミドリさんに、護身術を習います」


「相手の男のほうがもっと強いかもしれない」


炯さんの不安は晴れないのか、ただの可能性で否定してくる。


「炯さんは私を、守ってくれないんですか」


「絶対に守るに決まってるだろ!

それでも……」


「だったら、大丈夫です」


彼を抱き締め、いつも私にしてくれるみたいに背中をとんとんと叩く。


「炯さんが絶対に守ってくれるんなら、少しくらい危険な目に遭ったって大丈夫です。

炯さんは絶対に私を守ってくれるんだから、絶対にピンチにまにあうんです。

だから、絶対に大丈夫です」


自分にも言い聞かせるように〝絶対に大丈夫〟と繰り返した。

私はもしこの先、また危険な目に遭って、今度こそ炯さんと会えなくなっても――今度こそ殺されたって、その気持ちがあれば十分だよ。

それにたとえどんな危険が待っていたとしても、炯さん以外の人となんて一緒の人生を歩んでいけない。

私の気持ち、届け……!


「……そうだな」


そっと炯さんの手が、私の頬に触れる。

レンズの向こうの瞳は、濡れて光っていた。


「なにがあっても俺が絶対に凛音を守る。

だから、安心していい」


泣き出しそうに彼が笑う。


「はい」


たぶん、私も同じ顔をして笑っているんだろうな。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?