目を開けたら、質素なホテルのような部屋が見えた。
「……ん……!?」
声を出そうとして、猿轡を噛まされているのに気づく。
さらに腕は後ろ手に、足首も縛られていた。
「んー、んー!」
縄が緩まないかとじたばたと暴れるが、緩むどころかさらにきつく締まった気さえする。
『気がついたんだ』
ドアが開き、入ってきたのは――ベーデガー教授だった。
私が転がされているベッドの傍に椅子を持ってきて、彼は足を組んでそこに座った。
余裕のある彼を、思いっきり睨みつける。
『そんなに睨まなくたって、説明してあげるよ。
なにせ長い船旅だ、時間だけはたっぷりある』
彼の言葉でここが船の中だとわかった。
よく見れば窓が、一般的なホテルのものではない。
しかしこの時点で私は、さほど危険を感じていなかった。
携帯は壊されたが、まだ腕時計がある。
きっと、炯さんがすぐに気づいて助けに来てくれる。
そう、信じていたけれど。
『ああ。
先に残念なお知らせをしておこうか。
助けを期待しても無駄だよ。
最近は腕時計にもGPSがついていたりするから、捨ててきた。
密航みたいなもんだから、もちろん乗船名簿にも載っていないし、外国船籍の船にそうそう簡単には立ち入れないからね』
あっという間に彼が、私の希望をへし折ってしまう。
……じゃあ、私はもう二度と、炯さんに会えない?
『いいね。
その、絶望に染まった顔』
口角をつり上げ、教授はにっこりと笑った。
彼が部屋に置いてあるマシンを操作し、コーヒーのにおいが漂い出す。
少ししてカップを手に、教授は先ほどの椅子に座った。
『凛音もどうだい?
って、それじゃ飲めないか』
おかしくもないのに彼がくすくすと笑う。
『解いてほしい?』
それにはうんうんと勢いよく頷いた。
窓から見える風景は先ほどから変わっていない。
まだ出港していないはずだ。
今ならなんとか、逃げられるかもしれない。
『嫌だよー。
だって、騒がれるとうるさいからね』
すました顔で教授はコーヒーを飲んでいて、本当に忌ま忌ましい。
『さて』
飲み終わったカップを近くの棚に置き、彼は座り直した。
『凛音の聞きたいことはだいたいわかるよ。
なんで僕がここまで、君に拘るのかってことだよね』
いや、それはだいたいわかる。
アッシュ社長の一人娘ってだけで私には利用価値がある。
それで今まで、何度も誘拐されかけた。
ここまでのピンチは初めてだが。
それでさらに、三ツ星次期社長の婚約者という付加価値がついた。
一攫千金を狙う人間にとって、これほど利用価値のある人間はそうそういないだろう。
『僕はね、君が気に入ったんだ』
教授がなにを言っているのかまったく理解ができなくて、まじまじとその顔を見ていた。
だってそうでしょう?
気に入ったってだけで、誘拐とか犯罪とか危険を冒す?
『見た目が可愛いのもあるが、いつもにこにこ笑っていてなにも知らないお嬢さんって感じなのに、きっちり自分の意見は伝えてくる。
そういう大和撫子な凛音に惹かれたんだ』
熱弁してくる彼に引いた。
私は大和撫子ではない、ただのお転婆で世間知らずなお嬢様だ。
それは私自身がよく知っている。
教授の私像は、美化が過ぎていて気持ち悪い。
『それで、今回の報酬に君をもらったんだ』
にっこりと彼が私に微笑みかける。
……〝報酬〟ってなんなんだろう?
彼はただの、大学教授のはずだ。
『ああ。
大学教授は仮の姿。
本業は人身売買の斡旋をしている』
まるで私の疑問に答えるように彼が教えてくれる。
しかしその笑顔は酷く作りものめいていて、背筋がぞくりとした。
『大和撫子は海外で人気が高いんだ。
僕はクライアントの希望にあう子を探すのが役目なんだ。
それには大学教授っていうのはちょうどよくてね』
淡々と彼は語っているが、もしかして行方不明になったまま、まだ見つかっていない桜子さんも彼の仕業なのでは。
そんな疑念が浮かんでくる。
『あそこの大学は論文の盗用の常習犯でね。
脅したら簡単に採用してくれたよ』
くつくつとおかしそうに彼が笑う。
それでもしかしたら職員たちは、彼の顔色をうかがっていたのかもしれない。
この期におよんでまだ逃げる隙をうかがうが、まるで見張るようにベーデガーは私の前から動かない。
なにが楽しいのか彼は、ずっとにこにこ笑っていた。
『そろそろ出港の時間かな』
船の、警笛の音がする。
出てしまえばもう、本当に炯さんに会えなくなる。
それだけでもつらいのに。
椅子を立ってきたベーデガーが、私にのしかかる。
『向こうに着くまでのあいだに、この身体にたっぷりと君は誰のものか教え込ませて、従順な僕の妻にしてあげる』
浴衣の裾を割って彼に足をねっとりと撫でられ、全身が粟立った。
出そうになった悲鳴は、猿轡によって阻まれた。
ベーデガーに犯されるくらいなら……舌噛んで、死ぬ。
「凛音!
凛音はどこだ!」
不意に外から大きな声が聞こえてきて、ベーデガーの動きが止まった。
「んー!
んー!
んー!」
無駄だと知りながらその声に応えようと、大きな声を出す努力をした。
それをやめさせようとベーデガーが大きな手で口もとを覆ってくる。
それは鼻までも覆い、息ができない。
「ここか!」
遠のく意識の中で、激しくドアを叩く音がする。
「凛音!」
なにかが壊れる、大きな音のあと勢いよくドアが開いた。
その瞬間、驚いた弾みでベーデガーの手が緩む。
必死に息をしようとするが、猿轡に阻まれて苦しいばかりだった。
「凛音!」
入ってきた浴衣の男――炯さんがベーデガーを押し退け、私の猿轡を外してくれた。
「落ち着いて息しろ」
手足の拘束も解きながら、促すように背中を撫でてくれる。
それで、呼吸が楽になった。
それを確認し、炯さんが立ち上がる。
『……キサマ。
凛音になにをした?』
「ひっ」
低い、低い声が、そろりと逃げようとしていたベーデガーを捕まえる。
『な、なにって?』
私からは背中しか見えない炯さんからは、激しい怒りのオーラが立ち上っていた。
そのせいか、ベーデガーの余裕が消えている。
『ちょっと早い新婚旅行だよ。
彼女も僕との結婚を承知してくれたし』
『そんなはずねーだろうが。
凛音が愛しているのは俺、……だけだ』
『ひ、ひーっ!』
襟元を掴み、炯さんがベーデガーを強引に立たせる。
宙に浮くほど持ち上げられ、彼はじたばたと暴れていた。
『この、ゲスが!』
『ぐっ!』
床にたたきつけるように落とされてベーデガーは必死に体勢を整え、咳き込みながら呼吸を取り戻している。
『だ、だいたい、ここには兵隊がいたはず……』
「全部のした」
『え?』
状況が整理できないのか、眼鏡の向こうでベーデガーの瞳は完全に点になっている。
私だって炯さんが、なにをさらっと言っているのかわからない。
確かに浴衣も髪もかなり乱れているし、かなりの大乱闘があったんだろうなというのは推測できた。
しかし、人身売買の密航船だ、それに兵隊と言っていたから、普通じゃなく屈強な人たちがいたはずなのだ。
それを〝のした〟のひとことで片付けられる炯さんって?
え?
え?
「伊達に海賊と渡りあってないからな。
海賊に比べれば、弱かったぞ?」
わざとらしく声を上げて彼は高らかと笑っている。
もう、考えるのはよそう……。
ぺたんと座り込んで完全に戦意を喪失しているベーデガーを、私を縛っていた縄で炯さんが縛る。
「他にも女の子が攫われてきているかもしれなくて……」
ベーデガーのあの口ぶりだと、もう何人かこの船に乗っていそうだ。
「もうミドリが助けに行ってるから心配しなくていい」
安心させるように炯さんが私の頭をぽんぽんした。
それで大丈夫だって思えるのはなんでだろう?
「じゃあ、かえ……」
「炯さん」
私を抱き抱えようとした彼を止める。
そのまま視線でベーデガーを指した。
炯さんは小さくため息をつき、その前に私を支えて立たせてくれた。
『ベーデガーさん。
私はあなたのいうような大和撫子じゃありません。
それに、あなたにとって女の子はただの商品かもしれませんが、立派な意志を持った人間なんです。
意志を持った!
人間!
人をそんなふうに扱っていると、そのうち自分に返ってきますよ』
思いっきり冷めた目で彼を見下ろす。
『別に僕だけが悪いわけじゃないだろ。
買うヤツがいるから、斡旋しただけだ。
それに、僕が捕まったところで、すぐに別のヤツが出てくる』
微塵も反省せずにそんなことを言う彼にカッと腹の底に火がつき、反射的に手が上がる。
「やめておけ」
しかし、それは振り下ろす前に炯さんに止められた。
「こんなヤツ、凛音が手を下す価値もない」
「でも、でも……!」
こんな人、絶対に許せない。
人を食い物にしておいて、自分は悪くないなんて。
『はっ、甘ちゃんが』
「……あ?」
炯さんの目がすーっと細くなり、拳が握られた腕が後ろに引かれるのが見えた。
『そんなんだから僕に』
拳が、ベーデガーの顔へと勢いよく向かっていく。
私を止めておいて、炯さんは殴るの!?
『攫われ……』
そこでベーデガーがおしゃべりを止めた。
彼の眼鏡すれすれのところで、炯さんの拳が止まっている。
「蚊がいた」
『へっ?』
おそるおそる見上げたベーデガーを、炯さんが冷ややかな目で見下ろす。
次の瞬間、ベーデガーは白目を剥いて後ろ向きに倒れた。
「じゃあ、帰るか」
まるで遊びから帰るかのごとく炯さんが声をかけてくれる。
「そうですね」
おかげで少し、気が楽になった。
出された手に自分の手をのせ、一歩踏み出そうとしたが。
「あっ」
「おっと」
倒れそうになった私を、炯さんが支えてくれる。
「仕方ないな」
「あっ」
軽々とお姫様抱っこされ、その肩に掴まった。
「炯さん。
助けに来てくださって、ありがとうございます」
「当たり前だろ。
俺のほうこそ、危険な目に遭わせてすまない」
あやすように彼がキスしてくれる。
港には多数のパトカーが到着し、大騒ぎになっていた。
停めてあった車に炯さんが私を乗せてくれる。
すでに運転席にはミドリさんが待機していた。
「今日は疲れただろ。
近くのホテルに……」
「……おうちに、帰る」
炯さんの袖を摘まみ、呟くように言う。
「凛音?」
「おうちに、帰りたい」
炯さんの顔をじっと見上げる。
今はただ早く、炯さんと暮らす慣れ親しんだあの家に帰りたかった。
「わかった」
私の頭を軽くぽんぽんし、炯さんは家に向かうようにミドリさんへ指示を出した。
炯さんの肩に軽く寄りかかる。
彼の手が、強く私の肩を抱いてくれた。
彼の匂いが、ぬくもりが、私を安心させる。
「もう、安心していい」
「……はい」
証明するかのように、炯さんの手に力が入った。
私はちゃんと、炯さんと一緒にいる。
それで安心したのか、意識を失った。