次の仕事が決まるまでゆっくり……なんて、させてもらえなかった。
「ひーっ!
また入ってきた……!」
携帯の通知音で悲鳴が漏れる。
次から次に入ってくるのは、炯さんの会社からの翻訳依頼だ。
次の職場が決まるまで外部委託という形でやってほしいと頼まれて承知したのはいいが、休む暇を与えぬ勢いで依頼が入ってくる。
秘書室にもうひとり欲しいとか言っていたが、どうもかなり切迫しているようだ。
「あうあう」
虚ろな目をして辞書を引きつつパソコンのキーを叩く。
どのみち、炯さんはまた出張に出ていて、しばらくは暇だ。
それに、お給料がびっくりするくらい、いい。
『え、身内価格で盛ってませんか……?』
聞いたときは思わず、疑ってしまったくらいだ。
しかし、これが普通だと言われ、驚いたものだ。
たくさん稼げれば、それだけ悪い遊びもできる。
でも最近、お気に入りのコーヒーショップにすら行けていないんだよね……。
気分転換に行きたいが、そんな時間もないほど仕事が入ってくる。
お外で優雅に仕事も憧れたものの。
『コンプライアンス!
社外秘!
パソコンの画面なんてのぞき見できるからな。
フリーWi-Fi使ってデータ抜くなんて簡単だ。
漏洩は重大な契約違反で、莫大な違約金とともに信用も失墜だがいいのか?』
などと脅されたら、もう外で仕事をしようなんて気は起こらなかった。
その忙しい仕事も、どうも今週いっぱいらしい。
今週から新規採用された人が働き始め、少しずつ減ってきている。
このあとは仕事が決まるまで、私がお小遣い稼ぎができる程度に仕事を回してくれると炯さんは言っていた。
「休憩……」
腕を伸ばし、凝り固まった身体を解す。
携帯を持ち、自室を出た。
キッチンへ行き、炭酸水のペットボトルを掴む。
「あらあら。
お持ちいたしましたのに」
冷蔵庫の前で立ったまま炭酸水を飲んでいる私を、通りかかったスミさんはおかしそうに笑った。
「これくらい、自分でしますよ」
こんなことくらいでわざわざ、他人の手を煩わせる必要はない。
実家ではそれが、普通だったけどね。
「ミドリさんは?」
「そろそろ……あ、ミドリさん」
「はい」
今度はミドリさんがキッチンへやってくる。
「お散歩行きたいんですけど、いいですか?」
「はい、いいですよ」
「ありがとうございます」
ミドリさんはすぐに承知してくれたが、だいたいこの時間に散歩に出るのが最近の日課になっているので、もうすでに準備していてくれたのかも。
ミドリさんと一緒に道を歩く。
目的地の神社まで、徒歩十五分くらい。
ずっと家に居ると運動不足になるから、ちょうどいい。
もっとも、マシンルームで運動もしているけどね。
神社ではお祭りの準備が進んでいた。
もう今週末はお祭りだ。
忙しく働いている人たちが物珍しくてずっと眺めていられるが、早く用を済ませて帰らないと仕事が待っている。
神社ですることはもちろん、炯さんの安全祈願だ。
お賽銭を入れて鈴を鳴らす。
さすがに毎日一万円はつらいので、普段は五円で週に一度、一万円札を入れている。
……何事もなく炯さんが無事に帰ってきますように!
今日も炯さんの無事を神様に願った。
予定では今週末、炯さんが帰ってくる。
空港から直行、待ち合わせデートのやり直しだ、なんて言っていたが、大丈夫だろうか。
私のために無理なんてしてなければいいんだけれど。
お祭りの日は朝からそわそわしていた。
炯さんからは私が寝ていたあいだに、無事に向こうを発ったと連絡が入っていた。
「おかしくないですか……?」
夕方、スミさんに着付けてもらい、全身を鏡で確認しながら不安になる。
赤の椿柄の浴衣に黒の帯は、私の希望どおり落ち着いて見えた。
さらに赤の帯締めと、そこに通る赤椿の帯留めがそれを引き立てる。
髪も若奥様風に夜会巻きベースで結ってもらったし、メイクも少し、年上に見えるようにしてもらった。
できあがった私はいつもよりも何倍も綺麗で、反対にやり過ぎなんじゃないかという気がしてくる。
「お綺麗でございますよ。
これなら坊ちゃまも、惚れ直すこと間違いなしです」
「いたっ!」
丸まった背中を伸ばすように、彼女が私の背中を叩く。
それで、自信がついた。
今日はミドリさんの運転ではなく、タクシーで待ち合わせ場所へと向かう。
待ち合わせは私ひとりではなく、ミドリさんも一緒だ。
私ひとりだとまた、変な虫が寄ってくると困る……だ、そうだ。
私もナンパなんかされると困るしね。
しかし。
タクシーを降り、待ち合わせの像の前に一緒に立つミドリさんをちらり。
今日の私にあわせて浴衣姿の彼女は、かなり美人だ。
こんな人と一緒だなんて、反対に声をかけられるんじゃないかと心配になる。
「そこの彼女たちー、誰か待ってるのー?」
一見、爽やか好青年風の男性二人組が声をかけてきた。
杞憂が現実になり、心の中でため息をついた。
「待ち合わせ中ですので、心配はご無用です」
「えー、そんなこと言わないでさー。
その格好、お祭り行くんでしょ?
俺らと行かない?」
素っ気なくミドリさんは断っているというのに、彼らはしつこく絡んでくる。
しかも、手首を掴まれた。
「……いやっ」
「離せ」
反射的に引っ込めたが、手は離れない。
しかし瞬間、ミドリさんがその手を叩き落とした。
「いったー。
あー、これもう、折れちゃったかもなー」
などと言いつつ、男はニヤニヤ笑い、もうひとりに目配せしている。
絶対、折れてなどいない。
ミドリさんだってそれほど、強く叩かなかった。
ああやって私たちが動揺するのを楽しみたいだけなのだ。
「どーすんの、これ?」
男がわざとらしく手首をぶらぶらと振ってみせるが、本当に折れていたら痛くてあんなことはできないはずだ。
「責任取ってとりあえず、病院付き合ってよ」
また男が強引に私の手を掴み、引っ張ってくる。
「そっちのおねぇさんも、ほら」
「はぁっ」
さらにもうひとりの男がミドリさんを促すが、彼女は短くため息をついただけだった。
「私は別に、かまいませんけどね」
「やっ……」
ミドリさんが誘いに乗ってくれたと思ったのか、男が喜んだのも束の間。
その背後に、大きな黒い影が現れた。
「……なあ」
「ひっ」
ぼそっと低い音が落とされただけで、男たちが悲鳴を上げて縮こまる。
「俺の女をどこに連れていく気だ?」
高圧的に黒い影――炯さんが男たちを見下ろす。
「ス、スミマセンデシタ!」
及び腰で炯さんを見上げていた彼らは次の瞬間、一目散に逃げていった。
「なんだ、あれ」
呆れ気味に炯さんがため息を落とす。
彼らにはもしかしたら、炯さんがクマか化け物にでも見えていたのかもしれない。
「待ち合わせは問題だな、凛音が必ずナンパされている」
「は、はははは……」
私が悪いわけではないが、それでも気まずくて目を逸らしてしまう。
「ミドリもお疲れな。
これでうまいもんでも食べて帰ってくれ」
炯さんはミドリさんの手を取り、一万円札を握らせた。
「そんな!
私はこれが仕事ですので」
ミドリさんは返そうとしてきたが、それを炯さんが押しとどめる。
「いいから。
さっきのあれはミドリも不快だっただろ?
迷惑料だ、受け取っとけ」
「……ありがとうございます」
それで返す気はなくなったのか、ミドリさんはそれを受け取った。
炯さんは凄いな、ちゃんとミドリさんも気遣って。
私も見習わなきゃ。