炯さんの勧めもあって、ベーデガー教授の件は職場に報告した。
――しかし。
「個人の恋愛問題には口出しできないよ」
「えっと……」
年配の男性上司は困ったように笑い、そう言ってきた。
この人は本気で、こんなことを言っているんだろうか。
「……その気のない女性にキスしてくるのは、あきらかなセクハラだと思いますが」
怒りで身体が震える。
それでも怒鳴りそうになるのを抑え、できるだけ冷静に伝えた。
「え?
でも城坂さんもベーデガー教授に言い寄られて、まんざらでもないんでしょ?
お菓子とかもらってるし」
けれど彼にはわからないらしく、少し意外そうに驚いている。
「それは……」
お世話になっているお礼だと自分よりも立場の高い人に言われ、断れるだろうか。
それに毎回、私は困っているとこぼしていたのだ。
どうしてそれを、事実を歪めてこんなふうに捉えられるんだろうか。
「とにかく、僕らはなにもできないからね。
城坂さんで解決して。
それに教授の機嫌を損ねるとかあってはいけないからね」
これで話は終わりだとばかりに彼が邪険に手を振る。
きっと本音はそこなのだ。
教授の機嫌を損ねたら自分の立場が危うくなりかねない。
仕方ないので仕事に戻る。
ベーデガー教授に会いたくなくて、進んで本を戻していく作業をした。
「城坂さん、お昼いこー」
「あっ、はーい!」
無心に作業をしていたら、いつの間にかお昼になっていた。
今日も島西さんと一緒にカフェテリアへ向かう。
「なに食べるー?」
「そうですね……」
上司の反応があれだったからか、今日はあまり食欲がない。
少し考えて、サンドイッチとスープのセットにした。
「結婚式にあわせてダイエット?」
私のトレイの上を見て島西さんが意地悪く笑う。
「まあ、そうですね」
私もそれに笑ってあわせておいた。
「結婚式の準備はどうよ?」
「まあ、ぼちぼちです」
近々、母たちと二度目のドレス選びに行く手はずになっている。
それで決まればいいのだけれど。
「……結婚式といえばです、ね」
「……うん」
私の声が控えめになり、深刻そうになったからか、彼女は一度、お箸を置いた。
「ベーデガー教授から無理矢理キスされまし、て」
「……は?」
その瞬間、真円を描くほど彼女の目が大きく見開かれる。
「え、ちょっと待って。
嫌がる城坂さんに無理矢理、キスしてきたの?」
少し慌てた様子で、島西さんが聞いてくる。
「あー……。
不意打ちだったので、嫌がったりはしてないといえばしてなかったんですケド」
「それでも同意なしのキスはない。
サイテー!」
ぐさっと勢いよく、怒りをぶつけるように彼女は白身フライにお箸を突き立てた。
「え、でも、島西さん、前にベーデガー教授が私にちょっかい出すの、面白がってましたよね?」
「それはそれ、これはこれ。
多少、城坂さんが困ってるのを見るの、面白いじゃない?」
「はぁ……」
そんなので、面白がらないでいただきたい。
私としては迷惑だ。
「それに恋に一生懸命な人って、応援してあげたくなるじゃない?
もしかしたらそのうち、城坂さんがよろめく可能性もなくはないわけだし」
応援してあげたくなる気持ちはわかる、かも。
しかし、私が炯さん以外の人によろめく可能性なんて皆無だが。
「でも!」
顔を上げると同時に、島西さんが軽く両の拳でテーブルを叩く。
「同意もなしにキスとか絶対にダメ!
相手の嫌がる行為、絶対禁止!」
かなり彼女はお怒りの様子で、私の想像からはかけ離れていた。
もしかしたらまた、面白がられるんじゃないかと思っていたのだ。
しかし、彼女なりにやっていい行為と悪い行為はしっかり線引きされているらしい。
そこはちょっと、好感度が上がった。
「抗議しなよ、抗議」
「一応、副館長には相談したんですけど……」
しかし、恋愛は個人の問題だから口出ししないと、相手にしてもらえなかったことを話す。
「なにそれ!
そりゃ、下手に問題になるのが困るのもわかるけどさー。
なんだかんだいっても副館長だって、うちら派遣と同じような立場だし」
「そう、ですね……」
私たち下っ端は派遣だし、管理職もほとんどが委託業者からの出向だ。
そういう立場なので、正規の大学職員よりもさらに学内での地位が低かった。
「それでも酷い。
上司って私たちを守るためにいるんでしょ?
なのに職員がセクハラされたのに無視とかさ」
「ですよね!」
これは、私が我慢しなければならない案件かと思っていた。
私が世間知らずなだけで、本当はこれが当たり前なんじゃないかとすら疑った。
しかし、少なくとも島西さんは怒ってくれていて、安心した。
「
もしかしたらどうにかしてくれるかもしれない」
うん、うん、と島西さんが頷く。
下谷さんとは派遣会社の担当さんだ。
そうか、彼に掛けあうという手があるのか。
「今日、終わったら連絡してみます」
「うん、そうしなよ」
少しだけ先行きが明るくなった気がして、心が軽くなった。
「でも、ベーデガー教授に仕事を頼まれたら困るよね」
ふたり同時にはぁーっと物憂げなため息が落ちていく。
「とりあえず、図書館内ではできるだけふたりっきりにならないように気をつけるよ。
お届けも私が代わってあげられたらいいんだけどね……」
はぁーっとまた、彼女の口からため息が落ちる。
島西さんはドイツ語どころか英語もおぼつかないので、ベーデガー教授との会話が難しいのだ。
「それでも、助かります」
精一杯の気持ちで頭を下げた。
上司の対応を目の当たりにしたときはどんよりとした気分だったけれど、少なくとも味方はいる。
まだ、絶望するには早い。