翌日、仕事が終わり、待ち合わせの場所に向かう車の中で、うきうきとしながら携帯をチェックする。
「あ……」
しかし、そこに入っていたメッセージを見て、気分は一気に失速していった。
【わるい、ちょっと遅れる。
お茶でも飲んで待っててくれ】
お仕事なら仕方ないよね……。
さいわい、なのか映画は当日に行って決めようという話になっていたので、時間を気にする必要はない。
ミドリさんは一緒に待っていると言ってくれたが、コーヒーショップから出ないし、お守りの時計もあるから大丈夫だと帰ってもらった。
今日は帰って残務処理をしたらもうあがってもらうようになっているし、彼女の時間を無駄に使うのは申し訳ない。
それでもミドリさんは、知らない人には絶対に着いていかないようにと何度も私に言い含めて帰っていった。
炯さんといい、ミドリさんといい、私を子供かなんかと間違っていないかな?
コーヒーショップに入り、期間限定桃のフラッペを頼む。
このチェーンにはもう何度かひとり……正確にはミドリさんとふたりで来たので、慣れたものだ。
受け取ったカップを手に、窓際のカウンター席に座る。
待っているあいだに、どの映画を観ようかと携帯でレビューなんかをチェックした。
がっつり恋愛ものも気になるけれど、炯さんは退屈かな?
だったらこっちのファンタジーも気になるが、彼の仕事が終わる時間によりそうだ。
「凛音?」
声をかけられた気がしてあたりを見渡す。
『やっぱり凛音だ』
どこからか特定すると同時に、声の主はつかつかとその長い足で私の席まできて、隣に座った。
『こんなところで会えるなんて偶然だね』
『そう……ですね』
彼――ベーデガー教授に引き攣った笑みで返す。
……なんで彼が、こんなところに?
って、私だって帰りにデートで待ち合わせているくらいだ、彼だってこのあたりで遊んでいたっておかしくない。
『ひとりでお茶かい?』
『あ、いえ。
待ち合わせで……』
これでどこかへ行ってくれと願う。
しかし。
『ふぅん』
彼は興味なさそうに一言漏らし、コーヒーのカップを口に運んだ。
『凛音はこのあと暇かい?』
何気なく聞いてきた彼の顔を、なんともいえない気持ちで見ていた。
今、待ち合わせをしているって言いましたよね?
それは完全にスルーですか?
『展覧会のチケットをもらったんだ』
証明するかのようにチケットを二枚、彼がカウンターの上に滑らせてくる。
『どう?
凛音はきっと、好きだと思うけど?』
にやりと彼の頬が歪む。
それは私の好きな画家の展覧会だった。
炯さんが帰ってきたら誘ってみようと思っていたし、ダメなら仕事帰りにひとりで行こうと計画していたくらいだ。
『……いえ。
お断りします』
後ろ髪を引かれながらチケットを彼のほうへと押し戻す。
誘ってきたのが島西さんなら、せめて職場の男性上司なら、日を改めてもらえば行っていたかもしれない。
しかし、ベーデガー教授は絶対にダメだ。
それくらい、私にだってわかる。
『ふぅん』
彼がチケットを引っ込める。
あっさりと諦めてくれたなと思ったものの。
『この展示、僕の知り合いが関わっていてね』
だから、なんだというんだろうか。
くだんの画家はドイツ出身で、その作品はドイツの美術館に多く収蔵されている。
なので別に、彼の知り合いが関わっていてもおかしくはない。
『日本にも一緒に来ているわけだけど、よければ作品解説もしてくれるし、バックヤードも見せてくれるって話だったんだけど……そうか、凛音は行かないか』
「うっ」
物憂げに彼がため息をつき、声が詰まる。
そんなの、絶対に行きたいに決まっている。
でも、相手は私を虎視眈々と狙っているベーデガー教授、で。
これにどんな思惑があるかくらい、私だって気づいている。
『こんな機会、二度とないと思うんだけどなー』
カウンターに頬杖をついて私と目をあわせ、彼はにっこりと微笑んだ。
『い、行きませんよ』
きょときょととせわしなく視線を動かしながら、少しでも気持ちを落ち着けようとストローを咥える。
彼の言うとおり、こんな機会は二度とないのはわかっていた。
こんなもので釣ってくるなんて、卑怯だ。
『ふぅん。
これでもダメか』
『はい、ダメです』
それでも、これ以上ないほどいい営業スマイルで、きっぱりと言い切る。
『あっ』
一言発し、唐突に彼は窓の外を見た。
つられるようにそちらに視線を向けると、炯さんがこちらに向かってきているのが見えた。
これで、ベーデガー教授から解放される、そう安堵した瞬間。
――彼の唇が、私の唇に重なった。
「……え?」
なにが起こっているのか理解できない。
おそるおそるもう一度視線を向けた窓の外、そこでは私に気づいた炯さんが片手を上げかけて固まっていた。
「……なにを」
「ん?」
自分の行為の重大さに気づいていないのか、ベーデガー教授はにこにこ笑っている。
「なにを、するんですか」
静かな、静かな怒りの声が這っていく。
憎しみを込めて睨みつけたものの、彼はやはり、笑っているだけだった。
『なにって、凛音にキスしただけだけど?』
伸びてきた彼の手を、邪険に振り払う。
『押してダメなら突き落としてみなってね』
悪戯っぽくベーデガー教授が片目をつぶってみせる。
頭は、恐ろしいほど冷えていた。
そうか、これ以上ないほど怒ると反対に冷静になるんだ。
『それより、いいの?』
彼がちょいちょいと指先で指した先を見る。
凄い勢いで炯さんが店に入ってきて、ぶつかりそうになった人々が驚いて避けていた。
「凛音!
どういうことだ!?」
激しい怒りで燃える目が、眼鏡の向こうから私を見下ろしている。
「あの」
『ねえ』
不意に、その場に似つかわしくないほどのんびりとした声が響いてきた。
「あ?」
私から手を離し、炯さんが背後を振り返る。
そこでは、ベーデガー教授がやはり楽しそうに笑ってこちらを見ていた。
『彼女、怯えちゃって可哀想だよ?』
『はぁ?
キサマが凛音に手を出したりするからだろうが』
感情のない炯さんの声は、私を魂から震えあがらせた。
けれどベーデガー教授はそれでもまだ、余裕で笑っている。
『男の嫉妬はみっともないよ』
まるで炯さんを煽るように、くすくすとおかしそうにベーデガー教授が笑う。
途端にさっと、私から見える炯さんの頬に朱が走った。
「いくぞ!」
「あっ!」
私の手を引っ張り、引きずるように炯さんが連れていく。
『凛音、またね』
背後ではベーデガー教授がひらひらと手を振っていた。