翌日は通常業務をこなしつつ、ベーデガー教授依頼の文献を探す。
なんか最近、ベーデガー教授専任になっている気がするが、気のせいだろうか。
ドイツ語ができるからといわれればそれまでだけれど。
「ベーデガー教授のところへ持っていってきまーす!」
「あ、城坂さん」
部屋を出ようとしたところで声をかけられ、足を止めた。
「そのままあがっていいよ。
もう時間だし」
「あっ、はい。
ありがとうございます……」
壁に掛かった時計はもうすぐ私の定時になろうとしている。
図書館は大学構内でも奥まったところにあり、戻ってこなくていいのはいつもならば嬉しい。
しかし教授のところに行ってあがりなのは、なんか嫌な予感がするのはなんでだろう?
「よいしょ」
鞄と一緒に本を抱える。
ちなみに通勤用の服や鞄は街のファッションビルで買ってもらった。
そうやってできるだけ、一般人に擬態している。
ベーデガー教授の部屋の前に立ち、一度ため息をついてからノックした。
『ベーデガー教授、頼まれていた本をお持ちしました』
『入ってー』
『しつれいしまーす』
すぐに返事があり、中へ入る。
教授は私のところへ来て、本を受け取ってくれた。
『ありがとう。
いつも早くて助かるよ』
笑った彼の口もとから、爽やかに白い歯がこぼれる。
しかしそれが私には、胡散臭く見えていた。
『では、私はこれで』
用は済んだとばかりにそそくさと帰ろうとしたけれど。
『たまにはお茶に付き合ってよ』
もうその気なのか、教授は電気ポットをセットしている。
『あの、でも、仕事……』
『終わったんだろ?』
最後まで言い切らせず、ちょいちょいと教授が自分の肩を指す。
そこになにがあるのか考えて、今日はもう帰り支度を済ませて鞄を持っているのだと思い出した。
「その、あの」
『いつもなにかと頼んでいるお礼だよ。
これくらい、許されるだろ』
「うっ」
教授が片目をつぶってみせ、声が詰まる。
そんなふうに言われたら、断れない。
『じゃ、じゃあ……』
仕方なく、勧められるがままにソファーへ腰を下ろした。
『ちょうどいい豆が手に入ってね』
すぐにコーヒーのいい匂いが漂い出す。
教授がコーヒーを淹れているあいだに、ミドリさんへ少し遅くなると連絡を入れた。
『どうぞ』
『……ありがとう、ございます』
差し出されたカップを受け取る。
『よかったらこれも食べてねー』
いつものように焼き菓子……ではなく、今日はケーキが出てきた。
『あの、これ、どなたかのために用意していたんじゃ……?』
『いや?
今日くらいに凛音が来るんじゃないかと思って準備してた。
今度こそ絶対に、お茶に付き合ってもらおうと思ってね』
「はぁ……」
自分の分のケーキを手に、彼が斜め前に座る。
ケーキにフォークを刺し、彼はひとくち食べた。
『うん。
日本はスイーツも美味しいよね。
ほら、凛音も食べなよ』
嬉しそうに教授が、ふにゃんと締まらない顔で笑う。
なんかそれで、気が抜けた。
『じゃあ……いただきます』
そろりとケーキを引き寄せて、食べる。
刺さっている飾りのカードは、大学のカフェに入っているケーキ店のものではなかった。
どこかからわざわざ買ってきたのかな。
『日本に赴任してきてわからないことばかりで戸惑ったけど、凛音に出会えたのはよかったな』
ベーデガー教授が眼鏡の向こうで目を細めて私を見る。
『私は、別に。
普通に仕事をしているだけで』
それ以外に彼の役に立っているところなんてないと思う。
『僕と普通にドイツ語で話してくれるだけで嬉しいよ。
ここはわざわざ僕を招いたというのに、ドイツ語がまともにできる人間がほとんどいないからね』
物憂げに彼がため息をつく。
それには苦笑いしかできなかった。
『それに嫌な気持ちになっても、凛音の笑顔を見たら吹っ飛ぶんだよね』
教授が意味ありげに私に微笑みかける。
いくら鈍い私でも、それがなにを意味するのかくらい、わかる。
『私は普通に教授と接しているだけで、別にそこに特別な感情などありません』
やんわりと、しかしはっきりと気持ちには応えられないのだと伝えた。
『わかってるよ。
そうやってきちんと断ってくる凛音が、僕は好きなんだし』
けれど彼は理解したうえで、さらに攻めてくる。
『結婚は半年後……いや、もうあと四ヶ月か。
とにかくそれまでは凛音は一応、フリーなわけだし、その間に頑張って落とすよ』
自信満々に彼は、私のほうの目をつぶった。
『いえ、フリーではないですが……』
『書類上はフリーだろ?
それに略奪婚って燃えるねぇ。
あ、今は寝取られっていうんだっけ?』
おかしそうに教授がくすくすと笑い、頭が痛くなってきた……。