珍しく、炯さんはしばらくこちらにいるらしい。
「俺がいるのが不満か?」
朝食の席で、右の口端を持ち上げて彼がからかうように笑う。
「不満とかないですよ」
熱を持つ顔で怒ってみせ、そっぽを向いた。
本当は嬉しい癖に、素直に言えない自分が嫌になる。
「少しはゆっくりできるから、かまってやれると思う。
結婚式の打ち合わせも進めないとな」
「そうですね」
披露宴は両親たちにほぼ丸投げしているが、結婚式はそうはいかない。
いや、別に丸投げしたところで父などは喜びそうだが、式くらいは私たちの希望を通したかった。
「そうなると忙しくなるから……やっぱりゆっくりはできないか」
困ったように炯さんが笑う。
「でも、お式が終わったらゆっくりできますよ、きっと」
「そうだな」
笑って炯さんはコーヒーのカップを口に運んだ。
本当は式の準備なんて全部私がやって、炯さんはゆっくり休めたらいいのだけれど、そうはいかない。
いや、少しでも私がやって、休んでもらうんだ。
今朝は職場まで炯さんが送ってくれた。
「いってきます」
「ああ。
頑張ってこい」
運転席の窓を開けた彼と、キスを交わす。
それだけで頑張ろうって気になるのはなんでだろう?
仕事はいつもどおりといえばいつもどおりだった。
「ハイ、凛音」
今日は貸し出し業務に就いていたら、ベーデガー教授が返却にやってきた。
『一昨日はびっくりしたよ。
あんなところで凛音に会うんだもんな。
これはもう、運命か?』
彼が私に片目をつぶってみせるのを、なんともいえない気持ちで見ていた。
『……ただの偶然です』
それ以上でもそれ以下でもないはずだ。
『そうか?
偶然だとしてもやはり、運命だと思うけどな』
おかしそうにくすくすと笑う彼を軽く睨んでしまったが、私に罪はないはずだ。
『用が済んだのなら……』
……早くどこかへ行ってほしい。
なんて私の希望は、虚しく潰える。
『用ならあるぞ。
また、凛音に文献を探してほしくてな』
『わかり……ました』
それならば仕事なので、断れない。
彼から出る要望をメモに書き留めていく。
『文献探しは凛音に頼むのが一番いいんだよな』
ベーデガー教授はそれが正解だとばかりに頷いているが。
『私は別に。
ただ、ドイツ語ができるから、他の方より教授の要望が汲み取りやすいだけです』
それ以外に他の人よりも私が優れている点なんてない。
他の人が私と同じくドイツ語ができるか、教授が日本人だったら、私なんかよりもずっと優秀なはずだ。
『いや。
凛音はこちらが求めた以上のものを持ってきてくれるからな。
前回だって』
とんとんと軽く、彼は返却に来た本の山を叩いた。
『頼んだ以外の本も入っていたが、これが大変役に立った。
本当にありがとう』
ベーデガー教授の目尻が下がり、眼鏡の陰に笑い皺がのぞく。
それにどきどき……なんてまったくしない。
が、仕事を褒められて嬉しいのは事実だ。
『いえ。
業務ですから』
しかしそんな気持ちなどおくびにも出さず、素っ気ない態度を取った。
『〝ツンデレ〟?っていうんだっけ?
凛音のそういうところ、僕は好きだよ。
じゃあ、頼んだね』
ひらひらと軽く手を振りながら教授がいなくなり、ため息が漏れた。
なんなんだろう、あの人は。
私はツンデレじゃないって。
だいたい、ベーデガー教授に対して、少しもデレたりしていないではないか。
「ベーデガー教授、なんだってー?」
憂鬱な気持ちで返された本の手続きをしていたら、島西さんが声をかけてきた。
「いつもどおり、本を探してきてほしいですよ」
それ以外になにもないはずだ、うん。
「ふーん」
島西さんはニヤニヤ笑っているが、本当にそれ以外ないですって。
定時になって仕事を上がる。
ベーデガー教授の依頼は二、三日中でいいとのことだったし、職場でも明日したらいいよと言ってくれたので、明日に回した。
「凛音様、今日はご機嫌ですね」
「そ、そうかな」
迎えに来たミドリさんが、車のルームミラー越しにちらりと私をうかがう。
「はい」
そうか、わかっちゃうかー。
炯さんがしばらくこちらにいるということは、今日は家に帰ってくるってことだ。
夕食も一緒だし、そのあとも一緒。
それだけでこんなに嬉しくなっちゃうのはなんでだろう。
家でそわそわと炯さんの帰りを待つ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
帰ってきた彼が私にキスしてくれる。
それだけで、幸せな気持ちになった。
「んー、今日も仕事を頑張ってきたか?」
「はい、もちろんです」
炯さんに伴われて家の中へと入っていく。
私を膝の上に抱き上げ、リビングのソファーに座って炯さんもご機嫌だ。
「疲れて帰ってきて、凛音を抱き締められるとか最高だなー」
口付けの雨を炯さんが降らしていく。
視界の隅でスミさんが、うふふと微笑ましそうに笑って消えていった。
「もー、仕事の疲れも一発で吹き飛ぶ」
はむ、っと彼が私の唇を食べてくる。
その大きな口は本当に私を食べちゃいそうで、どきどきとした。
「本当は出張のときも、凛音を連れていきたいけどな。
そうすれば凛音切れの心配もなくなる」
炯さんはどこまでも真剣で、そこまで?とは思う。
でも、ちょっとわかるかも。
私も炯さんが長くいないと、炯さん切れを起こしているんだとこのあいだ、自覚したし。
しかし、一緒に出張に着いていくと、お仕事休まないといけなくなっちゃうしな……。
「でも俺の出張はなかなかスリリングだからな。
それで凛音の身に危険がおよぶといけないし」
さも当たり前のように彼は言っているが、出張ってそんなに危険なものなの?
確かに父も、場所によっては傭兵を雇うと言っていたけれど。
「お仕事、大変なんですよね……」
「そうだな、海賊と渡りあったりもするしな」
炯さんの身になにかあったらと考えて、身体がぶるりと震えた。
思わずぎゅっと彼に抱きつく。
「凛音?」
「ご無事に帰ってきてよかったです」
炯さんの仕事はこんなに危険なものなのだ。
いつ、何時、なにがあるのかわからない。
今まで無事に帰ってきたのも、奇跡なのかもしれない。
「……そんなに心配しなくても大丈夫だ」
あやすように軽く、彼が私の背中をぽんぽんと叩く。
「現地のコーディネーターがあいだに入ってくれるし、ボディーガードも雇ってる。
それに俺、逃げ足だけは速いからな」
「逃げ足が速い、ですか?」
ふふっとおかしそうに笑い、炯さんは私の顔を見た。
「そうだ。
ラグビーの試合ではボールを掴んだ俺を誰も止められなかった。
これでも大学生ラグビーでは得点王だったんだぞ?」
私にはそれがどれくらい凄いのかわからない。
でも、彼は自信満々でちょっぴりだけれど安心した。
「私より先に死んじゃダメです。
小さな怪我は仕方ないですけど、大怪我はダメ」
「わかった、約束する」
彼が私の前に小指を差し出してくる。
意味がわからなくてしばらく見つめていたら、促すように軽く揺らされた。
それでようやく彼がなにをしたいのか理解し、自分の小指をそれに絡める。
「俺は絶対に凛音より先に死なないし、大怪我もしない。
約束破ったときは……そのときはもう、凛音に詫びられないな」
困ったように炯さんは笑った。
「絶対に約束を破らなかったらいいだけです」
「そうだな。
約束する」
揺らされた小指が離れていき、ふたり見つめあう。
どちらからともなく、唇が重なった。
「……父さんが俺に、結婚を勧めたがった理由がわかるかもしれない」
唇が離れ、そっと炯さんの手が私の頬に触れる。
「凛音を残して先になんて逝けないからな」
眼鏡の向こうで炯さんの目が泣き出しそうに歪む。
「そうですよ、私をひとりにしないで。
約束です」
「ああ」
もう一度軽く、彼の唇が重なる。
大事な大事な、私の旦那様。
これから彼がいない日は、神様にその無事を祈ろう。
お守りも買おうかな。