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第22話

珍しく、炯さんはしばらくこちらにいるらしい。


「俺がいるのが不満か?」


朝食の席で、右の口端を持ち上げて彼がからかうように笑う。


「不満とかないですよ」


熱を持つ顔で怒ってみせ、そっぽを向いた。

本当は嬉しい癖に、素直に言えない自分が嫌になる。


「少しはゆっくりできるから、かまってやれると思う。

結婚式の打ち合わせも進めないとな」


「そうですね」


披露宴は両親たちにほぼ丸投げしているが、結婚式はそうはいかない。

いや、別に丸投げしたところで父などは喜びそうだが、式くらいは私たちの希望を通したかった。


「そうなると忙しくなるから……やっぱりゆっくりはできないか」


困ったように炯さんが笑う。


「でも、お式が終わったらゆっくりできますよ、きっと」


「そうだな」


笑って炯さんはコーヒーのカップを口に運んだ。

本当は式の準備なんて全部私がやって、炯さんはゆっくり休めたらいいのだけれど、そうはいかない。

いや、少しでも私がやって、休んでもらうんだ。


今朝は職場まで炯さんが送ってくれた。


「いってきます」


「ああ。

頑張ってこい」


運転席の窓を開けた彼と、キスを交わす。

それだけで頑張ろうって気になるのはなんでだろう?


仕事はいつもどおりといえばいつもどおりだった。


「ハイ、凛音」


今日は貸し出し業務に就いていたら、ベーデガー教授が返却にやってきた。


『一昨日はびっくりしたよ。

あんなところで凛音に会うんだもんな。

これはもう、運命か?』


彼が私に片目をつぶってみせるのを、なんともいえない気持ちで見ていた。


『……ただの偶然です』


それ以上でもそれ以下でもないはずだ。


『そうか?

偶然だとしてもやはり、運命だと思うけどな』


おかしそうにくすくすと笑う彼を軽く睨んでしまったが、私に罪はないはずだ。


『用が済んだのなら……』


……早くどこかへ行ってほしい。

なんて私の希望は、虚しく潰える。


『用ならあるぞ。

また、凛音に文献を探してほしくてな』


『わかり……ました』


それならば仕事なので、断れない。

彼から出る要望をメモに書き留めていく。


『文献探しは凛音に頼むのが一番いいんだよな』


ベーデガー教授はそれが正解だとばかりに頷いているが。


『私は別に。

ただ、ドイツ語ができるから、他の方より教授の要望が汲み取りやすいだけです』


それ以外に他の人よりも私が優れている点なんてない。

他の人が私と同じくドイツ語ができるか、教授が日本人だったら、私なんかよりもずっと優秀なはずだ。


『いや。

凛音はこちらが求めた以上のものを持ってきてくれるからな。

前回だって』


とんとんと軽く、彼は返却に来た本の山を叩いた。


『頼んだ以外の本も入っていたが、これが大変役に立った。

本当にありがとう』


ベーデガー教授の目尻が下がり、眼鏡の陰に笑い皺がのぞく。

それにどきどき……なんてまったくしない。

が、仕事を褒められて嬉しいのは事実だ。


『いえ。

業務ですから』


しかしそんな気持ちなどおくびにも出さず、素っ気ない態度を取った。


『〝ツンデレ〟?っていうんだっけ?

凛音のそういうところ、僕は好きだよ。

じゃあ、頼んだね』


ひらひらと軽く手を振りながら教授がいなくなり、ため息が漏れた。

なんなんだろう、あの人は。

私はツンデレじゃないって。

だいたい、ベーデガー教授に対して、少しもデレたりしていないではないか。


「ベーデガー教授、なんだってー?」


憂鬱な気持ちで返された本の手続きをしていたら、島西さんが声をかけてきた。


「いつもどおり、本を探してきてほしいですよ」


それ以外になにもないはずだ、うん。


「ふーん」


島西さんはニヤニヤ笑っているが、本当にそれ以外ないですって。


定時になって仕事を上がる。

ベーデガー教授の依頼は二、三日中でいいとのことだったし、職場でも明日したらいいよと言ってくれたので、明日に回した。


「凛音様、今日はご機嫌ですね」


「そ、そうかな」


迎えに来たミドリさんが、車のルームミラー越しにちらりと私をうかがう。


「はい」


そうか、わかっちゃうかー。

炯さんがしばらくこちらにいるということは、今日は家に帰ってくるってことだ。

夕食も一緒だし、そのあとも一緒。

それだけでこんなに嬉しくなっちゃうのはなんでだろう。


家でそわそわと炯さんの帰りを待つ。


「ただいま」


「おかえりなさい」


帰ってきた彼が私にキスしてくれる。

それだけで、幸せな気持ちになった。


「んー、今日も仕事を頑張ってきたか?」


「はい、もちろんです」


炯さんに伴われて家の中へと入っていく。

私を膝の上に抱き上げ、リビングのソファーに座って炯さんもご機嫌だ。


「疲れて帰ってきて、凛音を抱き締められるとか最高だなー」


口付けの雨を炯さんが降らしていく。

視界の隅でスミさんが、うふふと微笑ましそうに笑って消えていった。


「もー、仕事の疲れも一発で吹き飛ぶ」


はむ、っと彼が私の唇を食べてくる。

その大きな口は本当に私を食べちゃいそうで、どきどきとした。


「本当は出張のときも、凛音を連れていきたいけどな。

そうすれば凛音切れの心配もなくなる」


炯さんはどこまでも真剣で、そこまで?とは思う。

でも、ちょっとわかるかも。

私も炯さんが長くいないと、炯さん切れを起こしているんだとこのあいだ、自覚したし。

しかし、一緒に出張に着いていくと、お仕事休まないといけなくなっちゃうしな……。


「でも俺の出張はなかなかスリリングだからな。

それで凛音の身に危険がおよぶといけないし」


さも当たり前のように彼は言っているが、出張ってそんなに危険なものなの?

確かに父も、場所によっては傭兵を雇うと言っていたけれど。


「お仕事、大変なんですよね……」


「そうだな、海賊と渡りあったりもするしな」


炯さんの身になにかあったらと考えて、身体がぶるりと震えた。

思わずぎゅっと彼に抱きつく。


「凛音?」


「ご無事に帰ってきてよかったです」


炯さんの仕事はこんなに危険なものなのだ。

いつ、何時、なにがあるのかわからない。

今まで無事に帰ってきたのも、奇跡なのかもしれない。


「……そんなに心配しなくても大丈夫だ」


あやすように軽く、彼が私の背中をぽんぽんと叩く。


「現地のコーディネーターがあいだに入ってくれるし、ボディーガードも雇ってる。

それに俺、逃げ足だけは速いからな」


「逃げ足が速い、ですか?」


ふふっとおかしそうに笑い、炯さんは私の顔を見た。


「そうだ。

ラグビーの試合ではボールを掴んだ俺を誰も止められなかった。

これでも大学生ラグビーでは得点王だったんだぞ?」


私にはそれがどれくらい凄いのかわからない。

でも、彼は自信満々でちょっぴりだけれど安心した。


「私より先に死んじゃダメです。

小さな怪我は仕方ないですけど、大怪我はダメ」


「わかった、約束する」


彼が私の前に小指を差し出してくる。

意味がわからなくてしばらく見つめていたら、促すように軽く揺らされた。

それでようやく彼がなにをしたいのか理解し、自分の小指をそれに絡める。


「俺は絶対に凛音より先に死なないし、大怪我もしない。

約束破ったときは……そのときはもう、凛音に詫びられないな」


困ったように炯さんは笑った。


「絶対に約束を破らなかったらいいだけです」


「そうだな。

約束する」


揺らされた小指が離れていき、ふたり見つめあう。

どちらからともなく、唇が重なった。


「……父さんが俺に、結婚を勧めたがった理由がわかるかもしれない」


唇が離れ、そっと炯さんの手が私の頬に触れる。


「凛音を残して先になんて逝けないからな」


眼鏡の向こうで炯さんの目が泣き出しそうに歪む。


「そうですよ、私をひとりにしないで。

約束です」


「ああ」


もう一度軽く、彼の唇が重なる。

大事な大事な、私の旦那様。

これから彼がいない日は、神様にその無事を祈ろう。

お守りも買おうかな。

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