『凛音?』
不意に男性の声が聞こえてきて、炯さんの話が止まる。
そちらを見ると背の高い男性が立っていた。
『凛音じゃないか!
こんなところで会えるなんて偶然だな』
彼はその長い足で、私のいるテーブルまで一気に距離を詰めてきた。
なんで彼がこんなところにいるんだろう?
って、普通にお茶に来ていてもおかしくないか。
『え、えーっと……。
こんにちは、ベーデガー教授』
炯さんの反応をうかがいつつ、曖昧な笑顔で彼――ベーデガー教授に挨拶をした。
「凛音、この方は?」
ちらりと、しかし確実に不機嫌に、炯さんの視線がベーデガー教授へと向かう。
「職場でお世話になっている、ベーデガー教授です」
たぶん、この紹介で間違っていないと……思う。
『お世話になっているなんて、そんな。
お世話になっているのは僕のほうだよ』
私に通訳しろとベーデガー教授が目で言ってくる。
けれど。
『そうですか。
妻がお世話になっているようで』
炯さんはドイツ語で返し、優雅に会釈をした。
『妻?
婚約者だと聞きましたけどね』
小馬鹿にするように笑い、いいと言っていないのにベーデガー教授が勝手に私の隣に座ってくる。
『籍は入れていないだけで、もう妻も同然ですよ』
にっこりと炯さんは笑ってみせたが、その笑顔は作りものめいていた。
「凛音。
そろそろ行こうか」
行こうかと言われてもまだ、スイーツは残っている。
しかし彼には有無を言わせぬ雰囲気があった。
「あっ、はい!」
炯さんの雰囲気に気圧され気味に、慌てて立ち上がる。
『それでは、失礼いたします』
『ベーデガー教授、失礼します』
『ああ』
私たちを見送るベーデガー教授は、鼻白んでいるように見えた。
炯さんに手を引かれて歩く。
掴まれている手が痛い。
きっと炯さんは怒っている。
「あの。
炯……」
「ああっ、くそっ!」
人気のないところで立ち止まり、彼は唐突に悪態をついた。
「余裕のない俺、かっこわりー」
呟くように言ってため息をつき、彼が私を振り返る。
「ごめんな、凛音。
まだ全部食べてなかったのに」
そっと私の腰を抱いてきた炯さんは、いつもの優しい彼に戻っていた。
「いいですよ、別に気にしてないですし」
「よくない。
……そうだ。
今日はこのまま、ここに泊まろうか。
それで夜は、フレンチ」
もうその気なのか、炯さんはフロントへ向かっていっている。
「嬉しいですけど、フレンチのフルコースはお腹に厳しいです……」
「ハーフコースにすればいいだろ」
ちゅっと軽く私にキスし、炯さんはフロントで部屋を取り始めた。
その横顔をそっと盗み見る。
もしかしてさっきは、ベーデガー教授に嫉妬していたんだろうか。
だとしたら、嬉しいな。
夕食のときに、準備していたボールペンを炯さんに渡した。
「凛音から俺に?」
差し出した小箱を、彼が驚いて受け取る。
「その。
初めてのお給料でなにかプレゼントしたくて」
なにを言われるのかわからなくて、彼の返事を待つ。
「……嬉しい」
ぽそりと呟かれた言葉が耳に届き、顔を上げる。
「大事にするな」
眼鏡の下で目尻を下げ、空気に溶けるみたいに炯さんが笑う。
……ああ。
この人が好きだ。
私を大事にしてくれる、炯さんを愛している。
でも、炯さんはどうなんだろう――。