「城坂さん。
これ、整理お願いできる?」
「はい、わかりました」
声をかけてきた、私よりもかなり年上の女性に返事をして席を立つ。
そのまま、ワゴンを押して事務所を出た。
「えっと……」
背表紙に貼られたシールを確認しながら本を棚へと戻していく。
単純作業だが、書庫は広いのでそれなりに重労働だ。
あれから履歴書を書き直し、炯さんのOKが出てから就職活動を再開した。
彼は外資の営業事務なんていいんじゃないかといってくれたが、ふと自分が司書資格を取った理由を思い出したのだ。
小学生の頃、どんな読みたい本でも見つかる魔法の図書館シリーズが好きで、何度も何度も読み返した。
司書の資格なんて取ってもこれから先の、私の人生には関係ない。
それでも唯一、自分の意思でこの資格を取ったのは、やはりあの物語の影響があったからだろう。
そんなわけで、今度は職種を図書館勤務に絞って探してみた。
いくつかの面接を経て、大学の図書館に就職が決まった。
もっともここは司書資格があるから採用されたというよりも――。
「終わりましたー」
一時間ほどで全部棚に戻し終わり、事務所に戻る。
「あ、ちょうどよかった」
事務所向こうのカウンターから手招きされてそちらへ向かう。
そこには背の高い男性が立っていた。
「ハイ、凛音」
私に気づいた彼が、気さくに挨拶してくれる。
「こんにちは、ベーデガー教授」
私もそれに、軽く挨拶を返した。
『今日はいかがしましたか』
挨拶のあとはドイツ語で用件を聞く。
癖のあるブラウンの髪をラフな七三分けにし、黒縁の眼鏡の向こうから碧い目で私を見ている彼は、ドイツから招かれている教授で、三十五歳と教授の中では若いほうだ。
『探している資料があるんだ。
頼めるかな?』
戻ってくる言葉は当然ドイツ語。
彼は簡単な日本語はできるが、日常会話はまだ不自由が多い。
『わかりました。
どのような本をお探しですか?』
『そうだな……』
彼から聞いた用件を、手近なメモに書き留めていく。
『わかりました。
いつまでにお持ちすればいいですか?』
『今日中にお願いしたいんだが、いいだろうか』
『はい、大丈夫です』
ちょっとやっかいな案件そうだが、今日中と言われればそれまでにお持ちするのが司書の役目。
それに教授に不自由をおかけするわけにはいかないので、やるしかないのだ。
『じゃあ、頼んだよ。
……あ』
一歩、足を踏み出しかけていた彼は、なにかを思い出したかのようにこちらを振り返った。
『凛音。
duではなくSieだ』
意味深に彼が、私に向かって片目をつぶってみせる。
『わかり……ました。
気をつけます』
『うん』
満足げに頷き、彼は今度こそ去っていった。
……いや。
duで呼べなんて無理ですが。
彼がいなくなり、心の中でため息をついた。
ドイツ語には英語のyouにあたる二人称がふたつある。
それがduとSieだ。
duは親称、Sieは敬称になる。
当然、教授でかなり年上のベーデガー教授はSieで呼ぶべきだが、なぜか彼は私にduを強要してきた。
「城坂さん、助かった。
ありがとう」
カウンター業務に入っていた先輩女性からお礼を言われ、照れてしまう。
「いえ。
私は別に」
ここにはドイツ語のできる人間がいなくて、難儀していたらしい。
英語でやりとりはしていたが、細かいニュアンスが伝わらずにベーデガー教授はかなりご不満だったようだ。
それで、ドイツ語ができる私が採用されたというのが大きい。
先輩の助けも借りつつ、教授リクエストの本を集める。
「あ、このテーマで調べてるんだったら、こっちの本も参考になるかも」
似たようなテーマの本を見つけ、追加する。
それらを抱えてベーデガー教授の元を訪れた。
『ベーデガー教授、頼まれていた本をお持ちしました』
『入ってー』
すぐに中から返事があり、部屋に入る。
何度か訪れたことがあるそこは炯さんの書斎に似ていて、ちょっと親近感があった。
『ありがとう。
仕事が速くて助かるよ』
『いえ。
その、仕事中ですので』
お茶を勧めようとしてくる彼を、やんわりと断る。
『凛音は本当に真面目だよね。
僕はそういうところが好きなんだけど』
ソファーに座りながらおかしそうにくすりと小さく、彼が笑う。
そんな彼を困惑気味に見ていた。
『それでは、失礼いたします』
『あっ、そうだ』
部屋を出ていこうとしたら、彼から呼び止められた。
ソファを立ち、机の上からなにかを掴んで私の元へとやってくる。
『これ。
よかったら食べて』
『ありがとう……ございます』
戸惑いつつ、差し出された小袋を受け取った。
『では、失礼します』
今度こそ、彼の部屋を出る。
ドアを閉めて彼から離れた途端、ため息が出た。
「とりあえず、戻ろう」
とぼとぼと図書館までの道を歩く。
ここに勤め始めて一ヶ月。
なぜか私はベーデガー教授に気に入られていた。
この紙袋の中身が、有名スイーツショップのお菓子だってもう知っている。
それほど何度ももらっているのだ。
しかし私には彼に気に入られる理由が、ドイツ語会話ができるからしか思いつかない。