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第16話

「城坂さん。

これ、整理お願いできる?」


「はい、わかりました」


声をかけてきた、私よりもかなり年上の女性に返事をして席を立つ。

そのまま、ワゴンを押して事務所を出た。


「えっと……」


背表紙に貼られたシールを確認しながら本を棚へと戻していく。

単純作業だが、書庫は広いのでそれなりに重労働だ。


あれから履歴書を書き直し、炯さんのOKが出てから就職活動を再開した。

彼は外資の営業事務なんていいんじゃないかといってくれたが、ふと自分が司書資格を取った理由を思い出したのだ。

小学生の頃、どんな読みたい本でも見つかる魔法の図書館シリーズが好きで、何度も何度も読み返した。

司書の資格なんて取ってもこれから先の、私の人生には関係ない。

それでも唯一、自分の意思でこの資格を取ったのは、やはりあの物語の影響があったからだろう。


そんなわけで、今度は職種を図書館勤務に絞って探してみた。

いくつかの面接を経て、大学の図書館に就職が決まった。

もっともここは司書資格があるから採用されたというよりも――。


「終わりましたー」


一時間ほどで全部棚に戻し終わり、事務所に戻る。


「あ、ちょうどよかった」


事務所向こうのカウンターから手招きされてそちらへ向かう。

そこには背の高い男性が立っていた。


「ハイ、凛音」


私に気づいた彼が、気さくに挨拶してくれる。


「こんにちは、ベーデガー教授」


私もそれに、軽く挨拶を返した。


『今日はいかがしましたか』


挨拶のあとはドイツ語で用件を聞く。

癖のあるブラウンの髪をラフな七三分けにし、黒縁の眼鏡の向こうから碧い目で私を見ている彼は、ドイツから招かれている教授で、三十五歳と教授の中では若いほうだ。


『探している資料があるんだ。

頼めるかな?』


戻ってくる言葉は当然ドイツ語。

彼は簡単な日本語はできるが、日常会話はまだ不自由が多い。


『わかりました。

どのような本をお探しですか?』


『そうだな……』


彼から聞いた用件を、手近なメモに書き留めていく。


『わかりました。

いつまでにお持ちすればいいですか?』


『今日中にお願いしたいんだが、いいだろうか』


『はい、大丈夫です』


ちょっとやっかいな案件そうだが、今日中と言われればそれまでにお持ちするのが司書の役目。

それに教授に不自由をおかけするわけにはいかないので、やるしかないのだ。


『じゃあ、頼んだよ。

……あ』


一歩、足を踏み出しかけていた彼は、なにかを思い出したかのようにこちらを振り返った。


『凛音。

duではなくSieだ』


意味深に彼が、私に向かって片目をつぶってみせる。


『わかり……ました。

気をつけます』


『うん』


満足げに頷き、彼は今度こそ去っていった。


……いや。

duで呼べなんて無理ですが。


彼がいなくなり、心の中でため息をついた。

ドイツ語には英語のyouにあたる二人称がふたつある。

それがduとSieだ。

duは親称、Sieは敬称になる。

当然、教授でかなり年上のベーデガー教授はSieで呼ぶべきだが、なぜか彼は私にduを強要してきた。


「城坂さん、助かった。

ありがとう」


カウンター業務に入っていた先輩女性からお礼を言われ、照れてしまう。


「いえ。

私は別に」


ここにはドイツ語のできる人間がいなくて、難儀していたらしい。

英語でやりとりはしていたが、細かいニュアンスが伝わらずにベーデガー教授はかなりご不満だったようだ。

それで、ドイツ語ができる私が採用されたというのが大きい。


先輩の助けも借りつつ、教授リクエストの本を集める。


「あ、このテーマで調べてるんだったら、こっちの本も参考になるかも」


似たようなテーマの本を見つけ、追加する。

それらを抱えてベーデガー教授の元を訪れた。


『ベーデガー教授、頼まれていた本をお持ちしました』


『入ってー』


すぐに中から返事があり、部屋に入る。

何度か訪れたことがあるそこは炯さんの書斎に似ていて、ちょっと親近感があった。


『ありがとう。

仕事が速くて助かるよ』


『いえ。

その、仕事中ですので』


お茶を勧めようとしてくる彼を、やんわりと断る。


『凛音は本当に真面目だよね。

僕はそういうところが好きなんだけど』


ソファーに座りながらおかしそうにくすりと小さく、彼が笑う。

そんな彼を困惑気味に見ていた。


『それでは、失礼いたします』


『あっ、そうだ』


部屋を出ていこうとしたら、彼から呼び止められた。

ソファを立ち、机の上からなにかを掴んで私の元へとやってくる。


『これ。

よかったら食べて』


『ありがとう……ございます』


戸惑いつつ、差し出された小袋を受け取った。


『では、失礼します』


今度こそ、彼の部屋を出る。

ドアを閉めて彼から離れた途端、ため息が出た。


「とりあえず、戻ろう」


とぼとぼと図書館までの道を歩く。

ここに勤め始めて一ヶ月。

なぜか私はベーデガー教授に気に入られていた。

この紙袋の中身が、有名スイーツショップのお菓子だってもう知っている。

それほど何度ももらっているのだ。

しかし私には彼に気に入られる理由が、ドイツ語会話ができるからしか思いつかない。

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