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第15話

「ただいま」


「おかえりなさい」


一週間が過ぎ、予定通り炯さんが帰ってきた。

帰ってきた途端、スミさんたちがいるなんてかまわずにキスしてくる。


「あの、その、人前でキスするのはどうかと思うんですけど……」


恥ずかしくて頬が熱くなっていく。

しかし、炯さんは違うらしい。


「挨拶のキスなんだから、関係ないだろ」


さらに私にちゅっと落ちる口付け。


「それともあれか?

挨拶じゃないキスをしてほしい?」


彼の手が私の頬に触れ、その親指が唇をなぞる。

レンズの向こうからは愉悦を含んだ瞳が私を見ていた。


「えっ、いや。

……ケッコウデス」


消え入りそうな声で呟き、そっとその胸を押して離れる。

どきどきと速い心臓の鼓動が落ち着かない。

顔どころか全身が燃えるように熱かった。


「じゃ、あとでふたりっきりのときにな」


また私にちゅっと口付けし、ようやく炯さんは私から離れた。

これはもう、こういうものだと割り切って慣れるしかないのかな……。


着替えてきた炯さんと一緒に夕食を摂る。


「俺がいないあいだ、なにをしてたんだ?」


今日は和食だからか炯さんは日本酒を飲んでいる。

私もご相伴にあずかっているが、少しだけだと念押しされた。

前科があるだけに反論はできない。

でもこのお酒、水みたいでするする入っていっちゃうんだよねー。

気をつけよう。


「履歴書書いて、求人エントリーしてました」


「どこかいいところはあったか?」


揚げ出し豆腐を口に運びながら、さりげなく炯さんが聞いてくる。


「そうですね……」


実は、働きたいという気持ちはあるが、どういう業種がいいかだとか漠然としすぎていてよくわからない。

とりあえず無難な事務職で、未経験者歓迎のところにいくつかエントリーしたが、結果は芳しくない。


「まあ、この仕事がやりたいって就職するヤツのほうが少ないからな」


そんな気持ちで就職活動していたのかと呆れられるか、怒られるかかと思っていたのに、炯さんは意外なほどあっさりしていた。


「俺だって好きで海運業の社長なんてしているわけじゃないし」


「そうなんですか?」


彼の思いがけない言葉に驚いてしまう。


「そう。

父さんがやれっていうからやってるだけ。

好きな仕事をしていいなら、……そうだな。

ラグビー選手になりたかったかな」


ふっと薄く笑った彼はおかしそうだったけれど、同時に淋しそうでもあった。


「だからといっていい加減にしているわけじゃないぞ?

真剣に今の仕事に取り組んでいるし、やっているうちに楽しくなってきたしな」


大真面目に彼が頷く。

それはそれだけ今の仕事にやりがいを感じているのだと感じさせた。


「だから、できそうかなっていう仕事から始めればいいと思う。

仕事もだし、人間関係もあわなければ辞めればいい。

それだけの問題だ」


「はぁ……」


炯さんは辞めればいいなんて軽い感じだけれど、本当にそれでいいのかな。

でも、社長している人がそれでいいと言っているんだから、いいのかも。


「わかりました。

もう少し、気楽に考えてみます」


「そうそう。

ま、俺としては就活より妊活してほしいけどな」


悪戯っぽく、彼の口端が持ち上がる。

それを見て顔がほのかに熱くなった。


食後、リビングのソファーに座り、私を膝の上にのせて炯さんはご機嫌だ。

ちなみにスミさんとミドリさん、シェフも夕食の片付けが終わったら帰るので、この時間からはふたりきりだ。


「履歴書。

アドバイスもらえませんか?」


「いいよ」


緊張しながらプリントアウトしておいた履歴書を彼に見せる。

じっと、彼が目を通し終わるのを待った。


「俺ならこの履歴書見て、凛音を採用しないな」


「……そう、ですか」


こんな中身のない履歴書、ダメだって自分でわかっていても、落ち込んだ。


「資格が真っ白だが、まったく持ってないのか?」


炯さんの長い指が、空欄をとん、と突く。


「司書資格くらいで誇れるものは……」


「枯れ木も山の賑わいで持ってる資格は全部書いとけ。

なにもないよりマシだ」


そんなものなんだろうか。

でも、相手は採用する側の人間なんだし、間違いはないだろう。


「あと、自己PRが〝なんでも頑張ります〟とかダメ。

凛音のできることで埋める」


「私のできること……?」


「そう。

採用担当に雇いたいと思わせる」


真剣に悩んだが、私のできることなんてなにも思いつかなかった。

世間知らずなお嬢様、それが私だもの。


「……なにもない、です」


ミドリさんみたいに格闘技の達人だったらよかったんだろうか。

それとも、スミさんみたいに家事万能とか?

取り柄のない自分に気づき、どんよりと暗い気持ちになった。


「あるだろ。

お義父さんから凛音は五カ国語が話せるから、海外に連れていっても大丈夫だって聞いてるぞ」


「でもそれは、基礎教養として当たり前で……」


「あのな。

大学出てても英会話どころか日本語すら怪しいヤツだっていっぱいいるの。

五カ国語も話せるのは誇っていい」


炯さんは呆れ気味だが、日本語が怪しいというのはさすがに大袈裟では……?

それに父からはこれくらいできて当然、と言われてきた。

これが誇れるなんてやはり信じられない。


「それにお義父さんは、凛音にはファースレディにもなれるくらいのマナーと教養をつけさせたとも言っていたぞ。

そんな人間、海外展開している会社なら、喉から手が出るほどほしい。

俺だって贔屓抜きで凛音を秘書にほしいくらいだ」


うんうんと力強く、彼が頷く。

あれは私としては、ただの基礎教養だと思っていた。

それに、こんな価値があるとは思わない。


「どんな仕事をしたらいいかわからないって言ってただろ?

バリバリ仕事をするのに抵抗がないのなら、外資の営業事務とかに応募してみたらいい」


「そう、ですね。

考えてみます……」


私は、私自身が理解していないだけで、本当は大会社の令嬢以外にこんなに価値のある人間だったのか。

もっとも、炯さんが高く評価しすぎているだけかもしれないが。


「とりあえず、この履歴書は書き直しな」


「はい、わかりました」


炯さんにアドバイスされたことを頭に書き留めておく。

これで採用が決まるといいんだけれど。


真面目な話が終わったからか、炯さんは私のつむじにずっと、口付けを落としている。

なんだかその甘さが、いいなって思っていた。


「土産を買ってきたんだ」


傍らに置いてあった大きな紙包みを、炯さんが渡してくれる。


「ありがとうございます。

開けてもいいですか?」


「ああ」


丁寧に包みを剥がしていく。

中からはらくだのぬいぐるみが出てきた。


「えっと……」


炯さんは私を妹としてみているんだと思っていたが、もしかしてそれは今現在同じ年の彼女ではなく、幼き頃の妹さんなんだろうか。


「いやー、らくだを見る機会があって、なんかに似てるなと思ったんだよな」


「はぁ……」


今回の出張はサウジアラビア周辺だったらしいので、彼がらくだに遭遇していてもおかしくない。

それよりも、なんか嫌な予感がするんだよねー。


「それからずっともやもやしたまま過ごしてたんだけど、店に積まれているこれを見てさ」


軽く炯さんは、らくだの頭をぽんぽんと叩いた。


「凛音にそっくりだって気づいたんだよね」


彼は上機嫌だが、私はなんともいえない気持ちでらくだの顔を見ていた。

これは喜ぶべき……なのか?


「そんなに似てますか……?」


笑顔が引き攣らないか気を遣う。

しかしそんな私の気持ちを知らないのか。


「ああ。

この、大きな垂れた目がそっくりだ!」


にぱっと実に嬉しそうに炯さんが笑う。

その笑顔はとても眩しくて、つい目を細めてしまう。

それに、そんなに彼が喜んでいるならいいかという気になっていた。


「あとは、これ」


私の手を取り、彼が小箱をのせる。


「開けても?」


「ああ」


了解をもらい、蓋に手をかける。

箱の形状からだいたいなにが入っているか推測はついたが、それでもどきどきした。


「指環?」


ケースの中から出てきたのは、ピンクゴールドのリングの中央にダイヤを配した指環だった。

リングはダイヤを中心に緩くウェーブしていて、それがいいアクセントになっている。


「結納のときって話だったけど、早く凛音に渡したかったんだ」


指環を取り出し、彼が私の左手を取る。

じっと、彼がなにをするのか見ていた。

私の左手薬指に指環を嵌め、持ち上げる。

レンズ越しに私の目を見つめたまま、見せつけるように指環に彼が口付けを落とす。


「……これで凛音は、俺のものだ」


眼鏡を外した彼の顔が、ゆっくりと傾きながら近づいてくる。

私も目を閉じて彼を待った。

ちろりと唇を舐められ、素直に口を開く。

すぐに彼が入ってきて、私を捕まえる。

静かな部屋の中には私たちが立てる、淫靡な水音だけが聞こえていた。


いつの間にか押し倒され、炯さんに見下ろされる。


「……な。

このまま抱いていいか?

凛音切れ起こして死にそうなんだ」


「んっ、あ……」


私の返事など待たず、耳朶を舐め上げながら彼が服の中へと手を侵入させてくる。

それでも。


「……あの。

せめてベッドでお願いします……」


私も先ほどのキスでスイッチは入っていた。

それでも恥じらいとかあるわけで。


「わかった」


「きゃっ」


勢いよく抱き上げられ、その首に掴まる。

そのまま寝室へと連れていかれ、そのあとは意識が飛ぶまで愛された。

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