夕食はシェフが休みだし、早速デートに行きますかと街に連れ出してくれた。
「さて、凛音。
夕食はなにが食べたい?」
「そうですね……」
また、あのハンバーガーが食べたいとか言っても怒られないだろうか。
でも、デートだったらナシ?
「一、ラーメン」
「ラーメン!?」
そんなものが出てくるなんて信じられなくて、思わず運転する彼の横顔を見ていた。
「二、居酒屋」
「居酒屋!?」
「三、フレンチ」
眼鏡の奥から一瞬、ちらっと炯さんが私をうかがう。
「ううっ、悩む……」
今までの私だったら、フレンチが正解なのはわかっている。
でも、炯さんはこれからは悪いことをたくさんしようって言ってくれた。
だったら、ラーメンも居酒屋もありだ。
「えっと。
じゃあ、居酒屋で」
選びがたい二択だったが、それでもジャッジを下す。
大学で同級生たちから漏れ聞こえる居酒屋とはどんな店か気になっていた。
それに、ラーメンはきっとまた、炯さんが連れていってくれるだろう。
「わかった」
私の答えを聞いて彼は、楽しそうにハンドルを切った。
炯さんが私を連れてきたのは居酒屋……ではなく、若者集うファッションビルだった。
「居酒屋でその格好は浮くからな」
炯さんは笑っているが、それもそうだよね。
今日の私の服はもちろん、ハイブランドのお嬢様ワンピースだ。
ごく普通の洋服なんてあの日、炯さんに買ってもらったものしかない。
「そうですね」
私も苦笑いで、一緒に入っている店を見て回る。
「こう、ああいう肩が出ている、オフショルダーってどうですか?」
父などは「最近の子はああいう、肩がずり落ちたような服を着てみっともない」
などと渋ーい顔をしていたが、炯さんとしてはどうなのか気になった。
しかし。
「どうして俺に聞くんだ?
凛音が着たいなら着ればいいだろ」
「……ハイ?」
想定外の答えが返ってきて、首が斜めに傾く。
「俺の意見なんて気にしなくていいんだ。
凛音が着たいものを、好きに着ればいい」
「そう、ですね」
今まで私はずっと、こんな服を着たらお父様に嫌な顔をされるとか、家にふさわしくないとかいうことしか考えずに選んできた。
でも、世の中には好きな服を好きに着ていい世界があるのだと今の炯さんの言葉で初めて知った。
どんどん、私の世界が広がっていく。
それが、楽しくてたまらない。
「じゃあ、これを着てみたいです。
入ってもいいですか?」
「どうぞ」
おかしそうに小さくくすりと笑い、炯さんは私をエスコートしてくれた。
試着してみた、芥子色のバルーン袖オフショルダーブラウスが気に入って、それにあわせてデニムパンツを選ぶ。
足下とバッグは気に入るのがなくて悩んでいたら、別の店でもかまわないと炯さんは言ってくれたのでそれに甘えた。
「また悪い子のお洋服が増えました!」
初めて自分の好みだけで洋服を買ってもらい、上機嫌で店を出る。
いや、あの日、炯さんに買ってもらった服も自分の好みで選んだが、それでもまだ今日は悪い子だからこういう服を選ばなければならないという義務感があった。
自分の、これが着たい!という欲求だけで選んだ服は、これが初めてだ。
「そうか、よかったな」
眼鏡の下で目尻を下げ、炯さんが私を見る。
それはとても、嬉しそうだった。
「他の店も見て、欲しいのがあったらもう何枚か買ってやる。
あと、今日はマンションのほうに泊まる予定だから、着替えとパジャマもな」
「パジャマも好きなの、選んでいいんですか?」
喰い気味な私を両手で宥めるようにし、彼は苦笑いしている。
「ああ。
なんでも好きなのを選んだらいい」
「うわーっ、嬉しいです!」
じゃあ、このあいだファストファッションのお店で見ていいなーって思っていた、もこもこでショートパンツセットのホームウェアとかも大丈夫なんだ。
もう、わくわくしちゃうよー。
興奮気味に手を引っ張って歩く私に、炯さんは笑いながら付き合ってくれた。
さらに服を二セットと下着にパジャマ、あとは今日履く靴とバッグを買った頃には大満足していた。
「いいお洋服が買えました」
「よかったな」
休憩で入ったコーヒーショップ、にこにこ笑う私の前で、炯さんもにこにこ笑ってアイスコーヒーのストローを咥えている。
私の前には前から飲んでみたかった、呪文みたいな名前のフラッペが置かれていた。
もちろん、コーヒーショップは初体験で、注文は自分でさせてもらった。
「でもこれ、どこで着替えるんですか?」
前回は一式お買い上げしたのもあって、お店の試着室で着替えさせてもらった。
でも今日はもうすでに、買ったショップを出ている。
「いったん、マンションに行く」
「いいんですか?」
それは安心して着替えられそうだけれど、そんな手間をかけさせていいのか気になった。
「明日は休みだし、遅くなってもかまわない。
それに凛音をそのへんのトイレで着替えさせるとか、危険なことできないからな」
「トイレで……着替える?」
炯さんはうんうんと頷いているが、私にとって謎シチュエーションが出てきて頭の中ははてなマークでいっぱいだった。
「着替えスペースがあるトイレとかもあるんだよ。
でも、公共のトイレに行かせるだけでも不安なのに、着替えまではな……」
眼鏡の下で、彼の眉間に深ーい皺が刻まれる。
「でも、トイレって女性だけですし……」
そんなに嫌がるほど、危険なんてないと思うんだけどな。
「バカ。
隙を狙って何食わぬ顔で入ってくるヤツもいるし、そのまま隠れているヤツもいる。
盗撮カメラが仕掛けられていたりする場合もあるしな」
炯さんはどこまでも真剣で、少しも冗談を言っている様子はない。
それを聞いて身体がぶるりと震えた。
「……怖い」
世の女性たちは、そんな恐怖と戦っているんだ。
私は誘拐の危険はあったものの、おかげでボディーガードが傍にいることが多く、そういう危険には怯えなくて……というよりも気にすることなく過ごしてきた。
いかに自分が、恵まれた環境なのか痛感した。
「悪いことしに街に出るのはいいが、誘拐以外にもそういう危険があるんだってよく覚えておけ。
まあ、ミドリを付けてるから大丈夫だとは思うけどな」
「はい、気をつけます」
とはいえ、なにをしていいのかわからないけれど。
フラッペを飲み終わり、荷物を持って車に戻る。
もっとも、荷物は全部、炯さんが持ってくれたが。
だって!
私も持つって言っても、ひとりで持てるから大丈夫だって持たせてくれないんだもの!
「マンションってここから遠いんですか?」
「いや?
十分くらいだ」
黒のSUVは滑るように夕暮れの街を進んでいく。
あの日、車で彼の正体がわかったんじゃないかといわれそうだが、ドイツ製のこのクラスの車なら、ちょっと稼いでる会社の社長くらいなら乗っていてもおかしくない。