お見合いから二週間後。
私は炯さんの家に引っ越しをした。
「ようこそ、我が家へ」
「お、お邪魔します……」
おずおずと彼の家に迎え入れられる。
郊外にある彼の家は、正面の壁が優美な曲線を描いており、とても美しかった。
「まずは家の中を案内するな。
ここがリビングだろ」
通されたリビングは広く、ベージュとアイボリーを基調に揃えられた室内は、とても落ち着いている。
「風呂、俺の書斎、寝室……」
次々に部屋を炯さんが案内してくれる。
アスレチックルームやシアタールームまであり、遊び心が満載だ。
「あと、ここは凛音の部屋な」
「……え?」
最後に彼が案内してくれたのは、言い方が悪いがなんの変哲もない部屋だった。
簡素なライティングデスクと、シンプルな小さめのベッドだけが置いてある。
「えっと……」
「凛音だってひとりになりたいときがあるだろ?
本を読んだりだとか音楽を聴いたりだとか。
とにかく、自由に使うといい」
困惑気味の私に、彼が説明してくれる。
「といっても、今はほとんどなにもないけどな。
凛音の好きにカスタマイズしたらいいよ」
私とレンズ越しに目をあわせ、彼がにっこりと微笑む。
そこまで考えてくれているなんて思わなかった。
「ありがとうございます」
世の中にこんなに素敵な男性がいるなんて知らなかった。
これは今まで、私の住む世界が狭かったからなのかな。
リビングに戻ってきたら、お茶の準備がしてあった。
「紹介するな。
お手伝いのスミさん」
「スミでございます。
以後、よろしくお願いいたします」
準備をしてくれていた、初老の女性が頭を下げる。
「凛音です。
こちらこそ、よろしくお願いします!」
私も慌てて、頭を下げ返した。
「うちにはあと、今日は休みだがもうひとりお手伝いのミドリと、シェフがいる」
「はい」
お手伝いさんなどの存在に驚きはない。
うちだって何人もいたし。
「これからはスミとミドリは週に二日、日曜ともう一日、重ならないように休みとなる。
シェフは土日が休みだ」
「これから……?」
そこが少し、引っかかった。
もしかして私が引っ越してくるのに伴い、勤務体系が変わるんだろうか。
「今までは俺が出張に行っているあいだは基本、休みだったからな。
これからはそれじゃ、困るだろ」
「いたっ」
ふふっとからかうように小さく笑い、炯さんが軽く私の額を弾いてくる。
「そ、そうですね」
今まで箱入りお嬢様生活で、まわりのことはほとんど人にやってもらっていた。
言われるとおり、私ひとりではなにもできない。
それでも。
「でも、私のせいで出勤日が増えるとかいいんでしょうか……」
そこはやはり、気になった。
「みんな今まで、仕事が少なすぎてダブルワークしていたからな。
給料も増えるし、喜んでいるから大丈夫だ。
そうだろ?」
炯さんの隣で、スミさんがうんと頷く。
「そうでございますよ。
坊ちゃんがいない日は本宅へ仕事に行っていたのですが、あちらはなにかと忙しくて、婆の身には堪えるのです。
こちらでゆるりと凛音様のお世話をさせていただいたほうが助かります」
彼女は喜んでいるみたいだし、だったらいいのかな……?
「と、いうわけだ。
それはいいがスミ、何度、坊ちゃんと呼ぶのはやめてくれと言ったらわかるんだ?」
不満げな視線を炯さんが眼鏡の奥から、スミさんへ向ける。
二つ三つ上かと思っていた彼は、今年三十になったそうだ。
この年で坊ちゃんと呼ばれるのは嫌だろう。
「坊ちゃんはいくつになっても坊ちゃんでございます」
しかしそれはスミさんには効いていなくて、炯さんは諦めたかのようにため息をついた。
「あの。
スミさんって……」
ふたりのやりとりを聞いていると、雇用主と従業員というよりも、もっと気安い関係に見える。
「ああ。
スミとは子供の頃からの付き合いなんだ。
こっちに移るときにも着いてきてくれた。
俺にとって第二の母親みたいなもんだな。
だから凛音も、なにか困ったことあったら相談するといい」
「まあ、坊ちゃま。
母親だなんておこがましい」
照れているのか、スミさんはバンバン炯さんの肩を叩いてる。
炯さんも嬉しそうに笑ってた。
なんだかとてもいい空気で、これからの生活の不安が少し晴れた。
お茶をしながら、これからの生活について話した。
「このあいだも話したとおり、俺は海外出張が多くてこの家にあまり帰ってこない。
いや、これからはできるだけ帰るようにするが」
私の顔を見て、炯さんが言い直してくる。
「お仕事なら仕方ないのはわかっていますから、大丈夫ですよ。
それに、スミさんもいますし」
甘えるようにこつんと、軽く肩を彼にぶつけた。
このあいだだってあんなに詫びてくれた。
彼がこの件についてもう、気にする必要はない。
「すまないな」
それに、ううんと首を振った。
「それで。
俺がいないあいだ、凛音はなんでも悪いことをしていいからな。
といっても、常識の範囲内で、だが」
「ほんとですか!?」
炯さんの両手を握り、ついそれに食いついていた。
「ああ」
私の剣幕がおかしかったのか、炯さんは笑っている。
さらに近づいていた私へ、軽く唇を重ねた。
「……スミマセン」
興奮するあまり、それほどまでに彼に顔を近づけていた自分が恥ずかしくて、ソファーの上で小さくなった。
「いや?
そういう凛音、可愛くていいと思う」
あやすように今度は額に、彼が口付けを落としてくる。
それでますます、顔が上げられなくなった。
「それで。
出かけるときはミドリに頼んでくれ。
運転もしてくれる」
「わかりました」
「カラオケでもゲーセンでも好きに行っていいからな。
ミドリはそういう遊びが得意だ」
ちょっぴり意地悪く、炯さんが笑う。
なんだかミドリさんと会うのが少し、楽しみだな。
「あとは……」
「あの!」
「なんだ?」
強めに声をかけられ、炯さんは怪訝そうに私の顔を見た。
「悪いことって、……働いても、いいですか?」
「は?」
おずおずと上目でうかがった私を少しのあいだ見つめたあと、彼は何度か瞬きをした。
「別にかまわないが。
なんだ、凛音は働きたいのか?」
その問いにうんうんと勢いよく頷く。
本当は大学を卒業したら就職したかった。
しかし父に働く必要はないと反対され、半ばいじけて大学院に進学したのだ。
父から見れば良家の令嬢が誰かに使われるなんて、あってはならないのかもしれない。
私としては自分で、お金を稼いでみたかったのだ。
「なら、俺の会社で適当な仕事を……」
「自分で就職活動をしては、ダメですか?」
私に適当な仕事を与えてくれようとする彼を遮る。
「できるだけ自分で、なんでもやってみたいんです」
彼からの返事はない。
良家の奥様として勤め先は吟味したいなどと言われるかと思ったものの。
「やっぱり凛音は可愛いな!」
「えっ、あっ、ちょっと!」
まるで大型犬でも撫で回すかのように、わしゃわしゃと乱雑に炯さんは私の頭を撫でてきた。
「そうか、わかった。
でも就職先が決まったら教えてくれ?
万が一にもブラック企業だったら困るからな」
「あっ、はい!」
それくらいの気遣いは妥当だと思うので、従おう。
「それから。
これは凛音の新しい携帯」
私の手を取り、炯さんは携帯をのせた。
「新しいの、ですか?」
今使っているのは半年ほど前に機種変したので、別に困ってなんかないんだけれどな……?
「そ。
これからはこれで、なんの制限もなく使ったらいい」
「なんの制限もなく……?」
それって……。
「好きなアプリを入れられるってことですか?」
「そうだ」
「チャイルドロックもかかってない?」
「もちろん」
優しげに微笑んで彼が頷く。
途端に手の中の携帯が宝石かのように輝いて見えた。
「新しい携帯!」
これからは、スマートフォンを持っているのに電話とNYAIN、それに数個の生活アプリしか使えないとかないんだ!
「ゲームをしてもいいんですか?」
「ああ」
「インターネットでいろいろ調べても?」
「エッチなことはほどほどにな」
完全に興奮している私に、炯さんは苦笑いしているが気にならない。
それほどまでに私にとって、画期的なのだ。
「まずはアカウント設定からな。
ひとりでできるか?」
「えっと……。
教えて、もらえますか?」
曖昧に笑って彼に教えを乞う。
今まで設定済みの携帯を渡されていたので、自分でしたことがないのだ。
もう大学院まで卒業しているのに、携帯の設定すらできないのかと飽きられるかと思ったものの。
「わかった。
まず……」
彼は馬鹿にするどころかあっさり教えてくれて、ほっとした。
設定ついでに炯さんオススメのアプリをいくつか入れる。
「あとはこれな」
炯さんが指したのは、スケジュール管理のアプリだった。
「俺のアカウントとリンクして、互いのスケジュールを確認する。
あ、別に監視目的とかじゃないぞ?」
私が不審な顔をしていたからか、彼はすぐに説明してきた。
「俺がいつ日本にいるだとか、いつ家に帰る予定だとか。
そういうのがわかったほうがいいだろ?」
「そうですね……」
いちいち炯さんに尋ねて手を煩わせるより、自分で確認できるんだったらいいかも。
「俺も凛音のだいたいのスケジュールを把握していたら、急に時間ができたときとかに凛音をデートに誘いやすい」
「デート……」
そうか、夫婦になるんだから、デートしたりするんだ。
認識した途端に、みるみる顔が熱くなっていく。
え、デートってなにするんだろう?
手を繋いでお買い物とか?
それで、雰囲気のいいところでキスしたり……。
「きゃーっ」
熱を持つ頬を両手で押さえ、いろいろ想像してしまう。
「えっと。
凛音、さん?」
困惑気味の声が聞こえてきて、意識が妄想デートから戻ってきた。
目の前には苦笑いの炯さんが見え、急に恥ずかしくなって小さくなった。
「ス、スミマセン」
「別に?
近いうちに凛音の期待しているような、デートもしような」
彼が、私に向かって片目をつぶってみせる。
それで、私はもう、限界、で。
「きゅー」
くたくたと彼の腕の中に崩れ落ちていた。