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第8話

雑談を交えながら引っ越しの相談をする。

炯さんは郊外の一軒家に住んでいるが、忙しいときは都心のマンションで過ごしているらしい。


「凛音はどっちに住みたい?

街へのアクセスのよさならマンションだが、こっちは基本、寝に帰るだけだ。

ゆっくりしたい休日などは家に帰るが、少し街から離れているから不便ではある」


「そうですね……」


今だって街まですぐなんて場所に住んでいるわけではない。

それに疲れて帰ってきたら、ひとりになりたいかも?

だったら郊外の家のほうかな。

などと悩んでいたが。


「あ、あと。

俺はあまり家に帰らない。

海外出張が多いんだ。

わるいな」


本当に申し訳なさそうに彼が詫びてくる。

忘れていたわけではないが、彼は海運業会社の社長なのだ。

父の会社の石油運輸も請け負っており、それも彼が結婚相手になる要因にもなった。

海外が仕事の現場となれば、出張が多いのは当たり前だ。


「……そうなんですね」


それでも、これからの彼との楽しいあれやこれやに思いをはせていただけに、落胆を隠しきれない。

悪いとわかってはいたが、落ち込んでしまう。


「そんな顔をするな」


目の前が少し暗くなったかと思ったら、わしゃわしゃと柔らかく髪を撫でられた。


「俺まで悲しくなる」


顔を上げると、炯さんは困ったように笑っていた。

お仕事なのに私はなんてことを。

猛烈に後悔が襲ってくる。


「ごめんなさい」


椅子の上で身を小さく縮こまらせる。

彼だって申し訳なく思っているから、先に断って詫びてくれた。

なのに、不満に思うなんて最低だ。


「だから。

そんな顔するなって」


完全に困惑した顔で、どうしたらいいのかわからないのか、炯さんは後ろ頭を掻いている。

彼を困らせているのはわかっているが、そうしている自分が情けなくて、ますます落ち込んでいった。


「ほら。

なんか食べて機嫌直せ。

パフェか?

ケーキか?

それとも別の店に行くか?」


スタッフに持ってきてもらったメニューを、彼が私の前に広げる。

……ああ、そうか。

炯さんは私を落ち込ませたと後悔しているんだ。

だったら、私の今の態度はよくない。


「すみません、大丈夫なので」


精一杯、安心させるように彼に笑いかける。

いつまでも浮かない顔をしていたら、炯さんを困らせるだけだ。


「本当か?

なんでも頼んでいいんだぞ?」


それでもまだ、彼は心配そうに私の顔をのぞき込んだ。


「はい。

すみません、困らせてしまって」


「いや、いい。

それだけ俺との生活を楽しみにしてくれていたのは、嬉しかったからな」


僅かに、彼の口もとが緩む。

それで私も嬉しくなるのはなんでだろう?

「でも、なんか頼め?

というか俺がケーキを食べたいから付き合ってくれ」


「はい」


メニューを見ながらちらりと彼をうかがう。

こんなに気遣ってくれるなんて、炯さんは本当に素敵な人だ。

私も炯さんに釣りあう人間になりたいな……。



今後の打ち合わせを終え、炯さんは私を家まで送ってくれた。

ついでに、両親から私の引っ越し許可を取ってくれるらしい。

そんなの、自分で話をすると言ったものの。


「そういうの、凛音のいいところだし、任せたいけどさ。

こういう話は俺からしたほうがすんなり上手くいくの。

それに俺は今から凛音を悪い子に染めていくんだからな。

少しでもよき夫という印象を植え付けておかないといけない」


まるで悪戯を企む子供のように、炯さんは楽しそうだ。


「そうですか」


「そうなんだ」


なんだかおかしくて、くすくすと笑ってしまう。

想定していたものとは違い、彼とは楽しい結婚生活を送れそうだ。

ただし、あまり家に居ないのは淋しいけれど。


父は炯さんから話があると言われ、少々緊張しているように見えた。

もしかしたらふたりにしていたあいだになにかあり、破談を切り出されるのかもしれないなどと思っているのかもしれない。


「籍は入れてないだけでもう結婚したも同然ですし、すぐにでも凛音さんとの生活をスタートさせたいのですが」


いかにもよき夫といったふうに、爽やかに炯さんが笑う。

それは私の目から見れば作りものめいていたが、父には効いていた。


「そ、そうだな。

いいだろう」


一瞬あと、父は我に返ったのか小さく咳払いし、仰々しく頷いてみせた。


「ありがとうございます」


「う、うん」


炯さんに微笑みかけられ、父がぽっと頬を赤らめる。

女性どころか高年の男性まで魅了してしまう炯さん、恐るべし。


話が済み、帰る炯さんを玄関まで見送った。


「明日から出張なんだ。

凛音の引っ越しまでには帰ってくる」


「ご無理はなさらないでくださいね」


じっと、私の前に立つ炯さんを見上げる。


「そんな優しい言葉をかけてもらえたら、張り切って仕事が速く終わりそうだ」


彼が膝を折り、顔を近づけてくるのを黙ってみていた。

そのうち、私の唇に彼の唇が軽く触れる。


「……帰ってきたらエッチなことも、たくさん教えてやるな」


耳もとで囁いて、炯さんは離れた。


「えっ、あっ」


熱い吐息のかかった耳を押さえる。

口をパクパクさせている私を見て、炯さんは右の口端を持ち上げてにやりと笑った。


まだ熱にでも浮かされているかのようにふらふらと自室へ行き、ぽすっとベッドへ倒れ込む。


……炯さんって……。


先ほどのアレを思い出して耐えられなくなり、枕で出てくる奇声を抑えてごろごろ転がる。

なんであの人はあんなに恥ずかしい行為がさらっとできるのだろう。

これは私が男慣れしていないから、過剰に反応してしまうだけ?

これから一緒に過ごしていくうちに、慣れていくのかな……。


気持ちも落ち着き、起き上がってウサギのぬいぐるみを抱く。

これはこのあいだ、炯さんとゲームセンターで取ったものだ。

ちなみに、一緒に彼にとってもらったポテチは、四日ほどかけて美味しくいただいた。

両親からはそんなジャンクなものをと渋ーい顔をされたが。


「私、炯さんと結婚するんだ」


改めて認識すると歓喜が体中を駆け回り、また奇声を発しそうになる。

結婚相手が彼のような人だといいと思っていたし、きっともっと時間があれば彼を好きになるんだろうなと思っていた。

その彼が、私の結婚相手なのだ。

これほど嬉しいことはない。


それに炯さんは、私に悪いことを教えてくれると言った。

自由を約束してくれた。

こんな素敵な旦那様を選んでくれた父にはもう、感謝しかない。


「新しい生活、楽しみだな」


引っ越しは二週間後。

今からわくわくして、寝不足にならないか心配だ……。

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