目が覚めたら、知らない男の顔が見えた。
……え、誰?
目を開いたまま固まり、その顔を凝視しながらだらだらと冷たい汗を掻く。
それでも次第に目が覚めてくるにつれて、昨日の自分の行動を思い出した。
……そうだった。
お見合いすっぽかして、悪いことしに街に出たんだった。
昨日は楽しかったな。
最後は素敵な想い出まで。
まだ昨日の余韻に浸っていたくて、目を閉じる。
しかしすぐにまた、勢いよく目を開けた。
……というか、今何時?
遅くなってもいいから日付を超える前には帰らねばならなかったのだ。
けれどこれはもう、そういう次元の時間じゃない気がする。
時計を探したいが、私側の周囲には見当たらない。
ベッドを出るためには脱ぎ散らかした服を拾わねばならないが、それはコマキさん側に落ちているようだった。
「うっ」
「目が覚めたのか」
どうしようかジタバタしていたら、コマキさんが目を覚ました。
私が起こしたんだろうし、大変申し訳ない。
「その。
何時ですか」
「んー」
まだ眠そうに彼が、手探りで置いてあった腕時計を手に取る。
「七時だな」
よく見えないのか時計に顔面をくっつけるようにして彼は時間を確認した。
「七時!?」
マズい、もうとっくに朝だ。
のんきに気持ちよく、ぐーぐー寝ていたのを後悔した。
しかしそんな時間だというのに、こんなに静かなのは不思議だが。
「帰ります!」
「待て」
緊急事態なので恥ずかしいなんて考えないでベッドから飛び降りようとしたが、コマキさんから腕を掴んで止められた。
「止めないでください!
早くしないとコマキさん、殺されちゃうかも!」
0時を超えるとブレスレットのGPSが作動し、警備会社に私の居場所を教える。
あれにはそういう役割があるのだ。
だから日付が変わる前に帰りたかったのに、ぐっすり眠ってしまっていた自分が恨めしい。
とにかく、そんなわけでもう父に私の居場所は知られている。
なのにこんな時間になっても踏み込んできていないのは、不気味としかいいようがない。
「殺される、か」
自分の命の危機なのに、コマキさんはおかしそうに笑っている。
「冗談じゃないんですって!
本当に、本当に、ほんとーに、殺されるかもしれないんですよ!」
過去、私に危害を加えようとした人間は、私設ボディーガードによって瀕死の目に遭わされた。
父から見れば私を誘拐し、犯した男なんて生かしておけるはずがない。
「大丈夫だから心配するな」
私の心配をよそに、コマキさんはガシガシ乱雑に私の髪を撫でてきた。
「ちょっと!」
怒って彼の手を掴んだが、彼は全然気にしていないようだった。
「それより身体、大丈夫か?
昨日はだいぶ、無理をさせてしまったからな」
少しだけ心配そうに彼の眉が寄る。
それで昨晩のあれやこれやを思い出し、一気に顔が熱くなっていった。
「えっ、あっ、……大丈夫、です」
恥ずかしくて、最後のほうは消えていく。
「なら、いいが」
ようやく私がおとなしくなったからか、彼が軽く唇を重ねてくる。
それはまるで好きな人と過ごす翌朝のようで、ますます顔が熱くなっていった。
「とりあえず、大丈夫だからシャワー浴びてこい?
小汚い姿で帰ったら、ますますご両親が心配するだろ?」
「いたっ」
私の額をその長い指で軽く弾き、彼が意地悪く右の口端を持ち上げる。
コマキさんの言うことは確かに、一理あった。
しかし、大丈夫だと言い切る自信がどこから出てくるのかわからない。
「そうですね……」
「だから、ほら」
これを着ていけとでもいうのか、昨日彼が来ていたシャツを渡してくれる。
「服はあとで持っていってやる」
「わかりました」
渋々ではあるけれど、シャツを羽織って浴室へ向かった。
「服、おいとくなー」
「あ、ありがとうございます」
頭と身体を洗っていたら、ドアの外から声をかけられた。
終わって出ると、昨日着ていた服……ではなく、上品な桜色のワンピースが置いてある。
それしかないのでとりあえず、それを着て出た。
「あの……」
「昨日のあの服で帰ったら、親御さんの怒りレベルが上がるだろ?
少しでも下げてやろうと思って、寝てるあいだに準備しといた」
「ありがとうございます」
なんでもないように彼が言う。
そういう気遣いが嬉しくて、自然と頭を下げていた。
「じゃあ、送っていくな。
それで俺が勝手に連れ出したんだ、茜は悪くないって説明してやるから心配しなくていい」
その気なのか、彼は会ったときのスーツ姿になっていた。
この人はどこまで素敵な人なんだろう。
ああ、こんな一時の仮初めの恋じゃなく、本当にこの人と恋がしたかったな。
しかしそれは、私には許されないのだ。
「あの。
送ってくださらなくて大丈夫ですので。
ひとりで、帰れます」
もう、十分に迷惑をかけている。
なのにさらに、父に罵倒され、もしかしたら暴力も振るわれるような目には遭わせられない。
「本当に大丈夫か?」
眼鏡の下で、彼の眉間に深い皺が刻まれる。
そこまで私を心配してくれるのが嬉しくて、胸が詰まっていった。
「はい、大丈夫です。
これは私の意思で、私がやったことです。
だから、コマキさんには責任がありません。
お気遣いありがとうございます」
彼を安心させようと、できるだけの顔で微笑む。
それを見て彼は、小さく息を吐き出した。
「わかった。
じゃあ、健闘を祈る」
笑った彼が私に拳を突き出してくる。
どういう意味か一瞬考えて、私も拳を作ってそれに付き合わせた。
コマキさんは玄関まで私を送り、タクシーに乗せてくれた。
「なにからなにまで、本当にすみません」
「いいって。
俺は茜の、ささやかな願いを叶えてやりたかっただけなんだから」
慰めるように軽く、彼が私の頭をぽんぽんと叩く。
「とっても楽しい一日でした。
それに……無理なお願いまで聞いてくださって。
本当にありがとうございました」
精一杯の気持ちで彼へ頭を下げた。
顔を上げると眼鏡越しに、コマキさんと目があう。
「だからいいって。
俺は茜を愛しているからな」
悪戯っぽく彼が片目をつぶってみせる。
それで頬が熱くなった。
「それじゃあ……」
「茜」
コマキさんが上半身をタクシーの車内に入れてくる。
そのまま、私の耳もとへと口を寄せた。
「……きっとまた会える」
「え……?」
小さく呟き離れていく顔を、ただ見つめる。
「コマキ、さん……?」
「運転手さん、出してください」
どういう意味か聞こうとしたが、まるで封じるかのようにタクシーの屋根を軽く叩き、彼が促す。
すぐに彼が離れ、ドアが閉まってタクシーは走り出した。
……なん、だったんだろう?
もし、また会えるのなら、こんなに嬉しいことはない。
たとえ私が、どんな立場になっていたとしても。
でも、そんな可能性はきっとゼロだ。
「楽しかった、な……」
本当にこの一日、今まで生きてきた中で、最高に楽しかった。
最後に、あんな体験まで。
また籠の中の生活でも、この想い出を胸に生きていける。
そっと、コマキさんと拳をあわせた右手を握り込む。
いくら強がってみせても、父からの叱責はやはり怖かった。
しかしコマキさんのアレで、彼から守られているような気持ちになれた。
これなら怒鳴られようときっと平気だ。
「さようなら」
さようなら、私の自由。
さようなら、初恋の人。
もうこれで、未練なんてない。