男は駐車場に停めてあった車に私を乗せ、追っ手を振り払うように急発進した。
「とりあえず、自己紹介な。
俺は……コマキフミタカ。
ちんけな会社を経営している」
名乗る前に僅かに、逡巡するような間があったが、もしかして偽名なんだろうか。
だったら。
「
この春に大学院を卒業したばかりです」
私の名前は東城茜ではない。
これは昨晩読んでいた、小説のヒロインの名前だ。
彼も本当の名前を名乗る気はないみたいだし、私も知られると身に危険がおよぶ可能性がある。
これでも誘拐されそうになった経験は一度や二度ではない。
すべて未遂に終わったけれど。
追跡されないために携帯はホテルの庭に落としてきたが、最終手段の警備会社へ通報が行くブレスレットはバッグに忍ばせてある。
「大学院を卒業したばかりって、じゃあ……二十四?」
「はい」
「年まで妹と一緒とはね」
なにがおかしいのか、彼――コマキさんは笑っている。
しかし、私と同じ年の妹がいるということは、少なくとも二、三歳は上なのだろう。
「まずは服だな。
その格好じゃ悪いことはできない」
ちらりと眼鏡の奥から、彼の視線が私へと向かう。
「……そう、ですね」
つい、自分の身体を見下ろしていた。
お見合い、なので当然ながら、今日は仰々しい振り袖姿だ。
これでは確かに、悪いことどころか街を歩くだけでも不自由しそうだ。
「よし、決まりだ」
楽しそうにコマキさんは、ハンドルを切った。
コマキさんが私を連れてきてくれたのは、ファストファッションのお店だった。
「初めて来た」
同じデザインの、サイズ違いの服がたくさん並べてあるところから新鮮だ。
「なんでも好きなの選べよー」
「あっ、はい」
ぽやっと見ていたところに声をかけられ、我に返る。
普段、着ないような洋服が並んでいる店内は、見ているだけで楽しい。
が、私はこれから悪いことをするための服を買いに来たのだ。
選ばなければ。
無難にいつも着ているものに近いスカートを手に取りかけて、止まる。
今日は悪い子になるために来たのだ。
だったら服も、それなりにするべきでは?
「悪い子の服……」
もうなんだかそれだけでわくわくしてしまう。
さすがに振り袖だと試着ができないので、一発勝負だ。
「けっこう、似合ってる?」
鏡の中の自分に笑いかけると、大きな垂れた目が、嬉しそうにますます垂れる。
ボトムはデニムのショートパンツにし、オーバーサイズだけれどショート丈のカットソーをあわせた。
髪も崩してラフなひとつ結びにしてしまう。
これに足下はハイカットスニーカーだ。
父が見たら、足をそんなに出してはしたない、だらしないその格好はなんだと叱られそうだが、かなり気に入っていた。
「でも、これは外せないよね」
最後に、持っていたブレスレットを着ける。
着物だし、両親と一緒だから外していたが、ひとりで行動するとなると緊急時用のこれは着けておかなければならない。
「いいんじゃないか」
着替えてきた私を見たコマキさんの反応は、概ねよかった。
彼もスーツからラフな格好になっている。
ジーンズ姿は長めのスポーツ刈りの彼によく似合っていた。
「次は……ちょうど昼だし、ハンバーガーを食いに行くか」
「そうですね」
一度、車に戻って着ていた着物を置き、彼に連れられて再び街に出る。
少し歩いて憧れの、ハンバーガーチェーン店に入った。
「どれにする?」
カウンターで見たメニューにはいろいろ載っていて、悩んでしまう。
しかし後ろには人が並んでおり、あまり考えている暇はなさそうだ。
「えっと。
じゃあ、これで」
たぶん、これがオススメなのだろうと、一番目立つ場所に載っていたセットを指す。
「このセットを二つ頼む」
「サイドメニューとお飲み物はどうなさいますかー?」
「えっ、サイド?
飲み物?」
どこを見ていいのかわからず、わたわた慌ててしまう。
そんな私をコマキさんはおかしそうに笑っていた。
「サイドはポテトで。
飲み物はコーラでいいか?」
聞かれて、勢いよくうんうんと頷いた。
「じゃあ、両方ともそれでお願いします」
「かしこまりましたー」
「先行って座ってろ」
「えっ、あっ、はい」
軽く顎で店内を指され、おとなしく空いていた席に座る。
……支払い、またさせてもらえなかったな。
服も「悪い子デビュー祝いだ」って買ってくれた。
「お待たせ」
少ししてトレーにポテトと飲み物だけをのせてコマキさんが来た。
「ハンバーガーはあとから持ってきてくれる」
私が不思議そうな顔でもしていたのか、苦笑気味に彼が説明してくれる。
「あっ、そうなんですね」
こういうお店って全部、カウンターで受け取るのかと思っていた。
違うんだ。
ハンバーガーが来るまでのあいだ、ポテトを摘まむ。
「もしかして、フォークがいるとか言う?」
からかうように彼が右の口端を少し持ち上げる。
「さすがに言いませんよ」
こんなところでは手で食べるものだって、私だってわかっている。
「ふーん、そうなんだ」
コマキさんの声は意外そうだった。
「あの。
お金……」
「いいって。
今日は悪い子なんだろ?だったら奢らせておけ」
「あいたっ」
彼が長い指で私の額を軽く弾く。
僅かに痛むそこを、手で押さえた。
「でも、悪いです……」
「はぁっ」
ため息を落とされ、なにか怒らせたのかと縮こまる。
「お兄さんはちんけな会社の社長さんだけど、女の子をひとり、悪いことさせてあげられるくらいには稼いでるの。
だから、気にするな」
彼の手が伸びてきて、また額を弾かれるのかと身がまえた。
しかし。
「えっ。
ちょっと、やめてください!」
しかしコマキさんは私の頭を、まるで犬かなにかのようにわしゃわしゃと撫で回した。
「……子供扱い」
すっかり拗ねて、行儀悪くストローを吹いてコーラをぶくぶくとさせる。
「わるい、わるい。
なんか妹みたいで可愛くってさー」
まったく悪いと思っていないようで、彼は笑いながらストローを咥えている。
そのタイミングでハンバーガーが届いた。
「じゃあ。
いただきます」
包み紙を剥き、大きく口を開けかけて躊躇した。
こんなの、凄くはしたないよね。
でも、周囲はなんでもないように食べていて、これはここでは普通なのだと理解した。
それに、それに憧れてきたのだ。
覚悟を決め、口を大きく開いたつもりだったが、まだまだ小さかったらしく、口に入ってきたのはほんの少しのパンだった。
「そんなお上品にしてたら、食べられないぞ」
まるで見本を見せるかのように、コマキさんが豪快にハンバーガーにかぶりつく。
そうだよね、こんなところで気にしてちゃダメだ。
今度こそ、コマキさんをまねてハンバーガーに噛みついた。
「どうだ、お味は?」
「んー、美味しい?
なんか癖になりそうな感じがします」
きっといつも食べている、一流シェフが作るハンバーグのほうが何倍も美味しいのだろう。
しかしこのチープさが、なんともいえない。
「気に入ってもらえたんならよかった」
眼鏡の陰でコマキさんの目尻が下がる。
それを見て頬が熱くなっていき、俯いて残りのハンバーガーをもそもそと食べた。