リゼットがこの城で暮らし始めてから数か月。城の生活にもすっかり慣れ、まるでここが自分の家であるかのような自然ささえ漂っていた。
ただ、ふとした瞬間にアレッタやエイデンのことが胸をよぎることもある。だが、そのたびにリゼットは頭を振って、思い出を心の奥にしまい込んだ。
魔王もまた、リゼットに対するぎこちなさがすっかりなくなり、二人の間には自然な空気が流れていた。それどころか、時折軽口を叩き合うような、妙に親しげな関係にすらなっていた。
そんなある午後。リゼットが執務室に軽食を運ぶと、魔王は山積みの書類とにらめっこをしていた。
「お疲れ様です、魔王様。軽食をお持ちしました。」
リゼットが柔らかく声をかけると、魔王は顔を上げた。どこか優しさを宿した瞳がリゼットを捉える。
「ありがとう…リゼット。君が来てくれると、少し休憩しようって気になるよ。」
その言葉に、リゼットは思わず息をのむ。以前の魔王ならこんな言葉を口にするはずがない。それを思い出し、彼女は小さく肩をすくめて笑った。
「それは良いことですね。でも、休憩を取るのは構いませんが、この机の状態はどうにかしてください。」
リゼットが散らかった机に視線を向けると、魔王は苦笑いを浮かべた。
「確かに…少し片付けが必要だな。」
「少しどころじゃありませんよ。」
彼女が呆れたように書類をまとめ始めると、魔王はその様子を静かに見つめた。
「君は本当に頼りになる。まるで僕の妻みたいだな。」
「なっ……!」
リゼットは思わず顔を真っ赤に染め、手を止めた。
「そ、そんなこと……冗談でも言わないでください!」
慌てて言葉を返すリゼットに、魔王は目を細めて微笑む。
最近の魔王は、こんなふうにリゼットをからかうことが増えていた。それが冗談だと分かっていても、心臓は勝手に跳ねるし、顔の熱を抑えられない自分が悔しい。
「それでは失礼します。また何かあれば呼んでください。」
何とか平静を装ってトレーを手に部屋を出ようとしたとき、魔王が静かに呼び止めた。
「リゼット。」
振り返ると、魔王は穏やかな笑みを浮かべて彼女を見ていた。
「いつもありがとう。本当に感謝している。」
その真摯な言葉に、リゼットの胸がぎゅっと締め付けられた。
「そ、そんな…私はただ、城に住まわせていただいている身なので、これくらい当然のことです。」
リゼットは頬を赤らめ、視線を床に落としながら、小さく会釈をした。そして、慌てるように執務室を後にし、扉をそっと静かに閉めた。
(……どうしてこんなにも胸が高鳴るの……?)
廊下に出ると、リゼットは息を吐きながら壁にもたれかかった。
一方、執務室に残された魔王は、閉じられた扉をしばらく見つめた後、静かに書類に向き直った。
「君がここにいてくれて、本当によかった。」
彼の口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。