「リゼット様にと、旦那様からお預かりしました。」
「え……?」
リゼットは、思わず息を呑んだ。
侍女が恭しく手渡してきたのは、絹の柔らかな手触りと、夜空に星屑を散りばめたような繊細なレースが施された美しいドレスだった。
見ただけでわかる。これを仕立てるには、どれほどの職人と時間を要したのだろう――。
それはあまりにも豪華で、自分には似つかわしくないと思わせるほどだった。
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翌日。
リゼットはそのドレスを返す決心をし、緊張しながら魔王の執務室を訪ねた。小さく扉をノックすると、しばらくの間があり、どこか頼りない声が返ってきた。
「……入ってください。」
部屋に入ると、魔王はいつものように机に向かっていた。しかし、リゼットの姿を認めると、急に落ち着かない様子で立ち上がった。
「えっと……その……どうかしましたか?」
いつも顔を合わせているはずなのに、今日もまた、どこかぎこちなさが拭えない。
「あの、昨日いただいたお洋服のことなんですが……」
「……気に入らなかった……ですか?」
魔王の赤い瞳が一瞬揺れた。その不安げな表情に、リゼットは慌てて首を横に振った。
「いえ! とても素敵なんです。でも、あまりにも高価そうで……私にはもったいないと思ってしまって……」
「もったいない……?」
魔王はその言葉を繰り返し、小さく首を傾げた。その仕草が妙に愛らしく、リゼットは言葉を詰まらせた。彼がこんなに純朴な顔を見せるなんて思いもしなかったのだ。
「それに、魔王様……最近、プレゼントが頻繁すぎるんです。それもどれも高価すぎて……正直、困っています。」
勇気を振り絞って言ったつもりだったが、返答がない。見ると、魔王は微妙に顔をそらし、机の端を指先で弄り始めていた。まるで叱られた子どものような仕草だ。
「……あのスープ、美味しかったから。」
「え?」
リゼットが聞き返すと、魔王はさらに視線を逸らしながら、ぼそぼそと続けた。
「君が作ってくれたあのスープだ。あんなに美味しいもの、食べたのは初めてだった。だから……お礼がしたかった。それだけだ。」
「……食事のお礼、ですか?」
リゼットは驚いた。あのスープが、魔王にとってそこまで印象に残っていたとは。
「でも……私なんかが、こんな素敵なドレスをいただいていいんでしょうか?」
リゼットが恐る恐る問いかけると、魔王は一瞬黙り込んだ。そして意を決したように、深く息を吸い込み、彼女の方を見つめた。
「……君に似合うと思ったから贈ったんだ。」
その言葉には珍しく力がこもっていた。だが、言い終わると同時に、彼は視線をそらし、耳まで赤く染めながら再びそわそわと机を弄り始めた。そのぎこちなさに、リゼットは思わず笑ってしまいそうになる。
「……ありがとうございます。」
彼の不器用な優しさに触れ、リゼットは心の奥が温かくなるのを感じた。そして、彼の気持ちを無下にするのはあまりにも失礼だと思い直し、そっとドレスを抱きしめた。
その姿に気づいた魔王は、一瞬だけリゼットを見つめると、照れ隠しのようにまた視線を机へ落とした。
「似合わなかったら言ってくれ。その……また別のものを用意するから。」
「そんな……とんでもないです。本当にありがとうございます。」
彼女の柔らかな声に、魔王はほんの少しだけ顔を上げて微笑んだ。その笑顔は、誰よりも不器用で、だけどどこか愛おしいものだった。
リゼットはその日、魔王の執務室を後にすると、そわそわと落ち着かない気持ちを抱えたまま自室へ戻った。
部屋の扉を閉めると、彼女はふうっと小さく息を吐き、改めてそのドレスを見つめた。淡い光を浴びてきらめく繊細なレースの美しさに、胸が高鳴る。
「似合うなんて、そんな……」
そう呟きながらも、どうしても着てみたいという気持ちが抑えられなかった。恐る恐るドレスを広げると、その柔らかな感触が指先に伝わり、ますます心が揺れる。
リゼットは周囲に誰もいないことを確認してから、そっとドレスに袖を通した。背中のリボンをきゅっと結び鏡の前に立つと、そこには見慣れない自分の姿が映し出されていた。
「……これが私……?」
驚きと戸惑いの入り混じった声が自然と漏れる。ドレスはまるで星空を纏ったように輝き、普段の彼女とは違う、華やかで凛とした雰囲気をまとわせていた。
けれど、それ以上に心に響いたのは、彼の言葉だった。
「君に似合うと思ったから、贈ったんだ。」
その一言が頭の中で何度も繰り返されるたび、胸の奥がくすぐられるように温かくなる。
「……こんな私でも、似合うのかな……」
リゼットはふわりとスカートを揺らしてみた。その瞬間、ドレスの裾がやさしく舞い、まるで自分が童話の中の主人公になったかのような気持ちになる。
リゼットはそっと微笑んだ。そして、もう少しだけこの夢のような時間に浸ろうと、鏡の中の自分に向き直ったのだった。