魔王の城に居候するようになって、数日が経った。
だが……平和すぎて、頭がおかしくなりそうだ。
「平和って、こんなにも苦痛なものなの?」
リゼットはベッドにうつ伏せになりながら、ぺしぺしと枕を叩いた。
一日中ゴロゴロするか、適当に本を読むか。アレッタ令嬢のわがままに振り回されることもなく、怒鳴られることもない。時間が来れば豪華な食事が運ばれ、使用人たちは礼儀正しいし、必要以上には話しかけてこない。
「贅沢すぎて逆に落ち着かない!」
こんな快適な生活を享受できる自分に、むしろ何かの罠ではないかと疑いすら抱いてしまう。だが、運ばれてきた豪華な食事はきっちり平らげているあたり、リゼットも案外適応力が高い。
そもそも、アレッタ令嬢の変身魔法が解け、リゼットの姿に戻った瞬間、魔王の驚きようといったらなかった。
「すみません! 完全に誤解でした!」と泣きながら土下座する魔王の姿が、いまだ脳裏にちらつく。
それにしても、魔王は一体誰に何のために脅されて人を攫うような真似をしたのだろう?
だが、深く考えたところで答えは出ないし、リゼットにはどうすることもできない。
「まあ、どうせ私なんて攫われて悲しむ人もいないし……むしろちょうど良かったんじゃない?」
そう自分に言い聞かせ、この城での生活をなんとなく受け入れることにした。
ところが、数日が経ったある日、ふと疑問が湧いてきた。
「そういえば魔王様って、全然部屋から出てこないけど……何してるの?」
初日から一切姿を見せない魔王に疑問を抱き、使用人にそれとなく尋ねてみた。すると、返ってきたのはあっさりとした一言だった。
「魔王様は非常にお仕事熱心でいらっしゃいます。食事と睡眠以外のほとんどをお仕事に費やしておられます。」
リゼットの脳裏に、初日に見た魔王の姿がよみがえる。
やたらと青白い顔に深いクマ、ガリガリに痩せた体。あのときは「魔王って意外と存在感ないんだな」と思っていたが、これはただの過労では……?
「そりゃクマもひどいわけだよ!」
リゼットはガバッと立ち上がった。
「栄養不足で骨だけになったら、どうするつもりなのよ! 魔王なのに威厳ゼロになっちゃうじゃない!」
「よし、こうなったらリゼット様が直々に世話を焼いてやる!過労魔王を救う大作戦、開始よ!」 彼女は何かを決意したように目を光らせた。
その夜、リゼットは手作りスープを片手に、魔王の部屋の前に立った。軽くノックすると、中から返ってきたのは、妙に怯えた声だった。
「……た、助けてください! 怒らないでください!」
「は? 誰も怒ってないけど?」
戸惑いながら返事をすると、なおさらおどおどした声が続く。
「で、でも……私があなたを誤って攫ってしまったことへの抗議に来たんですよね……?」
「いや、もうその件はとっくに許してますけど!」
思わず盛大にツッコみながら、リゼットはドアを押し開けた。そして目に飛び込んできたのは、椅子に縮こまり、なぜか頭に紙をかぶった魔王の姿だった。
「……これが本当に魔王?」
初対面のときの印象をさらに更新するほどの小動物ぶりに、リゼットは呆然とするしかなかった。
「あーもう、いいから黙ってこれ飲んで! 私の料理を無視すると呪われるんだから!」
「……そ、そんな……わかりました! 飲みます、飲みますから!」
そうして恐る恐るスープを手に取る魔王の姿を見て、リゼットは胸を張った。
「よし、これで栄養不足の魔王救出作戦、第一段階クリア!」
こうして、リゼットの世話焼き生活が始まったのだった。