リゼットが初めて「理不尽」というものを味わったのは、ほんの幼い頃だった。
3歳の時、母親に手を引かれて養護施設に連れてこられ、言葉もなくその場に置き去りにされた。
そして、彼女はその後二度と家族と会うことはなかった。
静かに涙が流れることもなく、ただ何かが心からぽっかりと抜け落ちたような感覚に、ぼんやりとした幼い心が戸惑っていた。それでも何も言えなかったし、誰に訴えるべきかもわからなかった。
休暇の時期が来るたび、施設の子どもたちは次々と親に迎えられて帰っていく。
その光景を見送りながら、リゼットは小さな庭の片隅で一人きり、夕暮れの冷たい風に身を震わせながらボールを転がして遊ぶのが常だった。
たとえその時間がどれだけ孤独であっても、心の奥に閉じ込めていた寂しさや悲しみを表に出すことが、なぜか彼女にはできなかった。
そんなある日、夕暮れの冷たい風が吹き抜ける庭に、エイデンがふらりと現れた。
彼はゆっくりとリゼットに近づき、
彼女の手を取って言った。
「俺がいるよ。もうこれからは、
君を一人になんかさせないから。」
その言葉が、リゼットの心に小さな灯りをともした。エイデンもまた親を失った身であり、彼の父は戦争で命を落とし、母も病に倒れ、ついにはこの施設にやって来たという。しかし、彼の瞳には悲壮感よりも、何か揺るぎない意志が宿っているように見えた。
リゼットは、エイデンと出会って初めて、自分が「人間」になれたような感覚を覚えた。
それまではただ時間が流れ、自分という存在が周囲の空気に溶け込んでいくような感覚だったが、エイデンが手を差し伸べてくれたことで、リゼットの心は少しずつ温かさを取り戻していった。
しかし、エイデンが口にする「愛情」というものは、リゼットにとってなお遠いものであった。
アレッタ令嬢の世話係を命じられた時も、エイデンは「彼女は寂しさゆえに周りに厳しい態度を取っているんだ。愛情を持って接してやれ」と言った。
しかし、「愛情」という言葉がリゼットには理解できなかった。どのように表現し、どうやって人に与えればいいのかもわからない。
リゼットには、愛というものが一体どんな感情で、どのように感じるべきものなのか、想像することすらできなかった。
だから、彼女ができることはただ、アレッタ令嬢のわがままに従うことだけだった。
同情や慈しみの言葉をかけることもできず、ただ静かに彼女の命令を受け入れる。それがリゼットの唯一の「愛情」の表現だったのかもしれない。
そして気がつけば、リゼットはアレッタ令嬢の専属世話係という立場に落ち着いていた。しかし、その役目を果たしながらも、彼女の心にはどこか冷たい距離が残っていた。愛情という感情がどれだけ遠いものであるかを、自覚してしまう自分に対する無力さとともに。
そう思うと、今この場に自分がいることさえ、何かの罰のように感じられてならなかった。
「私にはきっと、人の心が欠けているのだ」と、彼女はふと息をつくように思った。
彼女が立っているのは、華やかで豪奢な舞踏会の会場。高く吊られたシャンデリアがまばゆく輝き、周囲の装飾は細部まで丁寧に施されたゴールドの光沢できらめいている。
何もかもが煌びやかで、夢のような美しさに満ちていた。しかしその光景は、どこか現実から遠く、まるで絵の中に迷い込んだかのように感じられた。
会場内には、軽やかな音楽が流れ、人々の笑い声が弾けるように響き渡っている。豪華なドレスに身を包んだ貴族たちが、互いに笑みを交わし、軽やかにステップを踏んで踊っていた。そんな賑やかな中で、ひときわ目を引く輝きがリゼットの視界に映り込んだ。
美しい金髪をたたえた一人の女性。彼女はまるで絵画の中から抜け出してきたかのようだ。
「あれが噂に聞く、クラリス様…?」
まるでお人形のようにかわいい…。
彼女は、隣に立つアルファン王子と目を合わせ、楽しそうに笑っている。その様子は、リゼットにとってはまぶしく遠いものに感じられた。
「なんて楽しそうなんだろう…」
自分が同じように心から笑う姿が全く思い浮かばなかった。何度想像してみても、いつも彼女の笑顔には無理があるような、冷たくぎこちないものしか浮かばなかった。
ふと、視線を前方に向けると、彼女を守るように周囲を警戒しているエイデンの姿が目に映る。
「私も、あの人たちみたいに、あんな風に笑えるのかしら?」
会場の煌めきと喧騒が、リゼットの心の中に浮かび上がる小さな問いを、まるで風に吹かれた砂のようにさらっていってしまった。