「クラリス、どうした?」アルファンの心配そうな声が、クラリスの耳に響いた。
クラリスははっとして、目の前に広がる豪華な料理に視線を戻した。どうやら、食事の間ずっとぼんやりしていたようだ。
「え?…あ、ごめんなさい、なんでもないです。」クラリスは慌てて笑顔を作り、ナイフとフォークを握りしめたが、その動きはぎこちない。
「ただ…ちょっと疲れているだけです。」そう言って食事を進めようとするが、フォークを手にしても何を刺すか考えられないほど、心ここにあらず。
「無理しないでくれ、クラリス。」アルファンの心配そうな声が追い打ちをかける。彼の瞳は優しく、まるで彼女の全てを理解しようとしているかのようだった。しかし、その瞳をまっすぐ見ることができない自分が嫌になる。
彼女の頭の中には、あの日からずっとジョーカーの姿が残っていた。
どうやら彼女は、ずっと前からクラリスとして存在していたらしい。そして、何故かこの国で捕らえられたとき、以前のクラリスの記憶を完全に失うと同時に、日和(ひより)としての記憶が戻ったのだ。
「なんて紛らわしいの…」と、クラリスは心の中で呟く。
さらに困ったことに、過去のクラリスの記憶を思い出したことで、ジョーカーに抱いていた感情まで戻ってきてしまったのだ。確かに以前のジョーカーにも少しはドキドキしていたが、今では彼に再会するたびに心は激しく揺さぶられる。
クラリスは頭を振り、気持ちを整理しようとした。しかし、ジョーカーのことを考えるたびに胸がざわつく。過去の記憶と今のクラリスとしての感情が入り混じり、心の中はまるで迷宮のようだった。
「私は、どうしたらいいの…?」クラリスは深いため息をつき、部屋の隅で一人考え込んでいた。
すると、不意に背後から声が響いた。
「悩み事か?」
その声に驚いて振り向くと、そこにはジョーカーが立っていた。壁に軽くもたれ、得意げにクラリスを見つめている。
「ジョーカー…!」名前を口にした瞬間、クラリスの胸はドキドキと早まる。
「よう、クラリス。驚いたか?」ジョーカーはニヤリと笑いながら、クラリスの目の前に一歩近づいた。その近づき方があまりにも自然で、クラリスの体は反射的に震える。
何かが違う…以前の彼は、もっと柔らかい雰囲気を纏っていたはずなのに。今の彼は、密室で二人きりになると、まるで捕らえられてしまいそうな危険な気配を漂わせている。
「な、何でここに…」クラリスは言葉を必死に絞り出そうとするが、ジョーカーが近くにいるだけで心臓が激しく脈打ち、息を整えることもままならない。ふとこちらに視線を送るその仕草は、獲物を逃すまいとする肉食獣のようで、胸の奥がざわめき、背筋がぞくりとした。
「ただ、会いたくなっただけさ。」彼は、さらに一歩近づく。その瞳がまるで彼女の心を読み取るように鋭く光るたび、クラリスの胸は再びドキドキと鳴り響いた。
彼の顔がすぐそこにある。金髪の一束がさらりと彼の額にかかり、そのすべてが彼女の視界を支配していく。彼には、近づくと引き寄せられるような謎めいた独特の雰囲気が漂っており、その中にはわずかに危険な香りも含まれている。
もしかしたら、これこそが本来のジョーカーの姿なのかもしれない。
「こんな人に…心を許しちゃダメなのに…」クラリスは必死に自分に言い聞かせる。頭の中では理解しているはずなのに、彼を目の前にすると全てが崩れてしまうのだ。
「もしかして、恋のお悩みかな?」ジョーカーはからかうように言って、軽く笑った。彼の瞳が、まるで彼女を完全に見透かしているかのように鋭く光る。
「違うわ!」ムキになって言い返そうとするけれど、彼の視線を感じると、全てがぎこちなくなる。彼が楽しんでいることが、彼の口元に浮かぶ笑みから伝わってくる。
「顔に書いてあるぞ、クラリス。俺のことばかり考えてるってな?」ジョーカーは軽口を叩きながら、ぐっと距離を詰めてきた。彼の息が感じられるほど近い距離に、クラリスの頬は一気に熱くなる。
「そ、そんなことないわ!」震える声で返すも、その声すら彼には届かないかのようだ。彼の手がそっとクラリスの手に触れた瞬間、電流が走ったように全身に緊張が広がる。温かい彼の手が指先をそっと包み込んだとき、クラリスは思わず息を呑んだ。
「もっと駆け引きができるタイプだと思ってたけど?」ジョーカーはクラリスの顔をじっと見つめながら、低い声で囁いた。彼の指先が自然に絡まり、その動きがとても滑らかで、彼に触れられた場所がじんわりと熱を帯びていく。
「こんなに…ただ手を触れられただけで…」クラリスは心の中でそう呟いた。必死に冷静を保とうとするが、彼の手の温もりが消えない限り、この感覚から逃れられないと感じた。
「お前、ほんと素直だな。」ジョーカーは口元に軽い笑みを浮かべ、まるで彼女をからかうように言った。しかし、その笑顔とは裏腹に、彼の瞳はまっすぐクラリスを射抜いている。逃がすつもりはないとでも言うかのように。
ジョーカーの瞳がまるで彼女の心を見透かしているかのように輝くたび、クラリスは自分が次第に彼に囚われていくのを感じた。
「私にはアルファン王子だけなのに…」クラリスは心の中で自分に言い聞かせようとした。しかし、ジョーカーの笑顔を目の前にすると、そんな理性的な考えはすぐに消えてしまう。まるで彼に踊らされているかのように。
「この人、本気で私をドキドキさせようとしてる…」と、胸の中でそう呟きながら、クラリスはジョーカーの瞳にますます引き込まれていった。
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