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第46話


どうして忘れていたのだろう――。ジョーカーという男に、かつて私の運命は大きく揺さぶられていたというのに。


封じ込めたはずの記憶が、静かに胸の奥から浮かび上がってくる。忘却の中に沈んでいた過去が、鮮やかな光を帯びながら再び私の前に姿を現し、あの夜の出来事を蘇らせた。


あの日、月は高く昇り、夜空に白銀の光が広がっていた。いつもと同じはずの庭が、その夜だけはどこか違って見えたことを、今でもはっきりと覚えている。


家族が深い眠りに落ちた頃、私はどうしても寝付けずにいた。胸の奥で何かが高鳴り、得体の知れない不安と期待が交じり合い、私を落ち着かせなかった。そんな時、突然静寂を切り裂くように、かすかな物音が聞こえた。耳を澄ますと、それは確かに誰かが動いている音だった。


無意識のうちにベッドから抜け出し、その音のする方へと向かっていた。胸の鼓動はさらに激しくなり、手はかすかに震えていた。恐怖と興奮が入り混じりながらも、足は音のする方向へと進んでいく。


やがて、テラスから低く苛立った声が聞こえてきた。


「くそっ、今日はついてねえな。」


その瞬間、全身に緊張が走った。誰かが外にいる――それを認識した途端、心臓が激しく打ち始めた。


カーテンの隙間から恐る恐る外を覗くと、そこには長身の人影が月明かりに照らされ、淡く輝いていた。


(不審者…?)


息を呑んだ私の視線は、彼の姿に釘付けになった。月光に浮かび上がったその瞬間、心は息をすることさえ忘れていた。


彼の長い金髪はそよ風に揺れ、月の光を浴びて輝いている。その美しさに、一瞬で心を奪われた。顔は中性的でありながらも、どこか野性的な魅力を漂わせており、何よりそのグレーの瞳がまっすぐに私を見つめていた。


「綺麗…」


思わず口からこぼれたその言葉。彼の瞳は私の心の奥底まで見透かしているかのようだった。彼は最初から私に気づいていたかのように、挑発的な笑みを浮かべた。その瞬間、私の世界は静止した。時が止まったかのように感じ、ただ彼の瞳だけが私を支配していた。


やがて屋敷が騒がしくなり、父の怒号と母の宥める声が入り混じって響き渡る。その中で、私はただ一人、茫然と立ち尽くしていた。気づけば、彼の姿はまるで幻のように消え去り、静かな月光に溶け込んでいた。


それでも、あの金色の髪、鋭いグレーの瞳、そして冷たく美しい表情は、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。


そう、これは過去の私の記憶だ。さらにその先を辿ろうとした瞬間、鋭い痛みが頭を貫き、意識が強引に引き戻された。まるで扉の向こうに手を伸ばしかけた途端、鍵をかけられたような感覚だ。


「クラリス!」という声で目を覚ました瞬間、頭の中が混乱する。現実と過去の境界が曖昧になり、目の前にいるジョーカーの姿がかすかに揺れて見えた。彼の呼びかけに応えるように、クラリスの口から無意識に言葉が漏れた。


「また置いていっちゃうの?」


自分でもその言葉の意味が理解できず、声に出した理由もわからなかった。けれど、胸の奥にずっと眠っていた感情が突き上げてきて、自然と口をついて出たような感覚だ。胸がきゅっと締めつけられるような、不安や焦燥が渦巻く。


ジョーカーの瞳が揺れ動く。普段は冷静で感情を読み取らせない彼の目が、今は驚きと何か言い知れぬ感情に染まっているように見えた。彼の沈黙は、何かを隠そうとしているのか、それともどう言葉にしていいかわからないのか。クラリスに対する彼の感情が、いつもとは違う温度を帯びているように感じられる。


風が静かに吹き抜け、木々がささやくように揺れる。遠くでかすかな鳥の鳴き声が聞こえる中で、二人の間に張り詰めた空気が漂っている。時間が止まったように感じるその瞬間、クラリスは無意識に息を詰め、ジョーカーの次の言葉を待ち続けた。


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