「今宵も月が綺麗ですね、怪盗さん♡」
その言葉が自分の口から零れ出た瞬間、クラリスはふっと意識が引き戻される。夜の静けさが耳に響き、冷たく澄んだ空気が肌に触れ、月明かりが屋敷の古びた石壁を照らす光景が、鮮やかに浮かび上がった。現実なのか、夢なのか、その境界は曖昧だが、彼女はその瞬間に飲み込まれていく。
視界には、黒いマントを纏い、夜の闇に溶け込む男の影。冷たく張り詰めた空気の中、不快そうな声が耳に届いた。
「またお前かよ…」
その声に、クラリスの胸は一瞬ざわつく。確かに聞き覚えのある声だ。それなのに、どこか遠い、冷ややかで苛立ちが染み込んだ響き。
ジョーカー、確かに彼だ。けれど、何かが違う。このジョーカーは、クラリスが知っている彼ではない。いつも感じていた親しみや温かさは消え失せ、代わりに冷たく冷酷な影だけが残っているようだった。
「お前、俺に何の恨みがあるわけ?」彼は苛立ちを隠すことなく、冷ややかな声を投げてくる。
視線を向けると、風に揺れる黒いマントの下、金髪が夜風に流れ、その中性的な顔立ちと唇に浮かぶ皮肉めいた笑みが月光に照らし出された。彼のピアスが微かに光を反射し、彼をさらに神秘的かつ危険な存在に見せる。
「行く先々に現れてデートの邪魔しやがって。お前のせいでイライラしてんだよ…」
デート?その言葉にクラリスは眉をひそめる。何の話をしているのだろう。
「あら、じゃあ私とのデートを楽しんではいかが?」挑発するように、クラリスの唇は自然に動いた。
自分の意思がどこか遠のいたような感覚が走る。まるで、別の誰かがその言葉を彼に向かって放ったかのような、不思議な感覚だ。
「誰がお前なんかと」ジョーカーは吐き捨てるように答える。普段も礼儀正しいとは言えないが、これほどまでに攻撃的な彼を見たことはない。
「残念ね、怪盗さん。私の好みはあなたなんだけどなぁ?」
苛立ちの舌打ちが響く。彼の目は鋭く、怒りに満ちた視線がクラリスを貫いた。
「舐めてんなよ?それ以上ふざけたこと言うと、女だからって容赦しないからな。」
彼の言葉は氷のように冷たく、クラリスの心に突き刺さる。
それでもクラリスは、無理やり微笑む。だが、その微笑みは自分の意思ではなく、何かが彼女の顔に勝手に浮かべさせたようだった。まるで、自分の感情とは全く別のものがそこに現れているようで、自分が誰かの人形にでもなったかのような気分だった。
「いいか?俺は今日こそ、この屋敷の令嬢をさらうからな!前から目をつけてた大本命だから邪魔すんなよ」
ジョーカーはそう言い捨てると、クラリスを振り払い、そのまま消えていった。
彼の姿が消えた後、クラリスは無意識のうちに呟いた。
「この方法でしか、あなたに会えないんだもの…」
その言葉が、自分の心の奥底から自然に出たものなのか、それともこの夢のような現実の中で誰かがそう言わせたのか、彼女にはもう区別がつかなかった。ただ一つ、胸の中に残されたのは、彼女が知っていたジョーカーとはかけ離れた存在に対する寂しさだけだった。