修道院の薄暗い回廊を、足音が静かに響いていた。石畳の冷たさが足元に伝わる中、イリスは毎朝の祈りを終え、いつものように庭の手入れへと向かおうとしていた。
「イリス様、手紙が届いております。」
その言葉に、イリスは顔を上げる。修道女から差し出された封筒を見た瞬間、彼女の呼吸が一瞬止まった。厚手の上質な紙、封蝋に押された見覚えのある家紋――
彼女は、震える手で封筒を受け取った。その重みは、過去の自分を思い出させるようなものであり、忘れかけていた世界が一気に戻ってくる感覚がした。
彼の手紙が――リオネルからの手紙が、自分の元に届いた。
震える手で封を切ると、すぐにリオネルの筆跡が目に飛び込んできた。最初の数行を読み始めたが、表面的には何の変哲もない内容に見えた。
イリスは手紙をじっくりと読み進めながら、文章の配置、言葉の選び方に注意を払った。リオネルが表向きに記した言葉の裏には、必ず隠された暗号が存在しているはずだ。
ゆっくりと文字を追い、視線を紙の上で踊らせるうちに、ある単語が不自然に浮かび上がる。
「イリス、君がこの手紙を読む時、私はすでに次の計画を進めているだろう。」
それは、まるで紙の表面にひそやかに忍び寄る影のように、彼女の意識に入り込んできた。
手紙を読み終えたイリスは、その場に立ち尽くした。指先がかすかに震え、視界がかすんでいく。
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思えば、イリスは幼い頃から、常に孤独の中にいた。何一つ不自由のない生活を送っていたが、広大な屋敷の中で彼女の心はいつも空虚だった。両親は彼女にほとんど関心を示さず、それぞれ外に愛人を作り、自分たちの世界に没頭していた。
「誰かに愛されたい」
その言葉は、まるで呪いのように彼女の心に深く刻まれていた。どれだけ努力しても、誰も彼女を本気で気にかける者はいなかった。
だが、彼女には唯一の救いがあった。アルファンの弟、リオネルだ。3年前のパーティで彼とは出会った。
リオネルは貴族としての威厳と洗練された魅力を兼ね備えており、何よりもその眼差しは冷静で、どこか他者を寄せ付けない神秘的なものがあった。
しかし、イリスにとってリオネルの存在は特別だった。彼だけは、彼女を他の誰とも違う存在として見てくれているように感じたのだ。
リオネルのそばにいるときだけ、イリスは心が解き放たれるような感覚に包まれた。彼と共に過ごす時間は、孤独な日々の中で唯一の光だった。リオネルの低く落ち着いた声、計算し尽くされた冷静な言葉の一つ一つが、彼女にとっては宝物のようだった。彼が何を言おうとも、その一言一言が彼女を満たし、喜びに変わった。
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リオネルの計画が徐々に明らかになり、彼がいかにして王国の運命を操ろうとしているかを知るにつれ、イリスはそのすべてに心から従った。たとえそれが冷酷で残酷なものだとしても、彼の望むことならば自分は何でもする――そう決意していた。
「イリス、君は私にとって重要な存在だ」
リオネルがそう囁いた時、その言葉は彼女の胸に深く響いた。それまで誰からも必要とされなかった彼女にとって、リオネルのその一言は、すべての苦しみを超えるほどの救いだった。彼のためなら、どんな犠牲も厭わない――そう信じることで、彼女は自分を保ち続けた。
しかし、その愛は時折彼女を苦しめた。
リオネルの計画の中で、彼女は単なる駒に過ぎないのではないかという不安が心をよぎることもあった。それでも、彼の側にいることで得られる幸福は、その疑念を打ち消すに十分だった。彼が微笑みかけるだけで、全ての不安は消え去り、彼の目に映る自分だけが全てだと思い込んだ。
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彼女が今、リオネルに応じれば、再び彼の陰謀に巻き込まれるだろう。それがかつての自分ならば、迷わずその道を選んだかもしれない。しかし、今の彼女の心には「ミク」の存在が影を落としていた。
「私は…どうすればいいの…?」
イリスは手紙を握りしめ、空を仰いだ。修道院の高い天井は、彼女に答えをくれることはなかった。ただ静寂が続き、彼女の問いかけを飲み込んでいった。