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第32話


「…クラリス。あの日、キミは突然、何もされていないのに体が切り刻まれるような痛みを感じたんだよな?」


その言葉に、クラリスは目を見開いて顔を上げた。針を動かしていた手がピタリと止まり、あの日の感覚が鮮やかに蘇る。


心臓が微かに早く脈打つのを感じながら、彼女は答えに詰まった。「あの日…またこの話…」不意に押し寄せた不安に胸が締め付けられるような思いだった。


「あの日」とは、数日前にイリスが引き起こした国民の反乱を指している。


彼女は静かに口を閉ざしたまま、ほんのわずかに首を縦に振った。それだけが、彼の言葉に応える精一杯の仕草だった。


目の前のアルファンは、いつになく真剣な表情を浮かべていた。まるで、彼の心の奥底にある何かを、彼女に伝えたいと訴えかけるような目だった。クラリスはその視線に気圧され、無意識に視線を外し、再びボタンに意識を戻そうとした。


指先は再び布に触れ、針を動かし始めたものの、彼の存在がまるで自分の肌に触れるかのように近く感じられ、心がざわめく。


胸の奥でくすぶる感情を何とか抑えようと、クラリスは針仕事に集中しようと努めたが、どうしても気持ちは彼の方へ引き寄せられていった。


いつからだろう、アルファンが自分に衣服の修繕を頼むようになったのは。ほんの些細なほころびや取れかけたボタンでも、彼はいつも自分に持ってくる。


「メイドがやればいいのに…」と、クラリスは内心でぼやくが、彼が頼んでくるたび、心の中に温かいものがじわりと広がった。


彼が自分にこれを頼む理由は分からない。ただの気まぐれかもしれない。でも、クラリスはそれでもいいと思った。アルファンにとって、自分が少しでも特別な存在であるのだと信じたい気持ちが、心の奥でかすかに灯っていた。


外界から隔絶されたこの豪華な部屋は、彼女を優しく包み込みながらも、どこか重苦しい空気をまとっていた。


鉄格子をはめられた窓から差し込む柔らかな日差しが、外の存在をかすかに感じさせるものの、その光はあまりにも遠いものに思えた。外界の喧騒は完全に遮断され、反乱が起きたことすら、まるで別世界の話のように遠く思える。


だが、それ以上に、彼女が感じているのは、自分が監視され、閉じ込められているという現実だ。


「これでいいんだ…」と、クラリスは自分に言い聞かせる。アルファンのそばにいられるなら、それだけで十分だと。


どんな形であろうと、彼の近くにいられることが幸せだと信じたかった。


しかし、胸の奥には、閉じ込められた囚人のような感覚が消えずに残っていた。何かを誤れば、この仮初の夫婦のような関係が脆く崩れ去ってしまうのではないか――そんな恐れが、彼女の口を固く閉ざしていた。


けれど、アルファンがそばにいて、彼の声が耳元で低く響くたびに、その恐怖は一瞬で消えてしまう。彼の存在が、自分を守ってくれているかのような、そんな錯覚を覚える瞬間があった。


「他の服もボタンが取れたから、明日頼んでもいいか?」


クラリスは少し戸惑いながらも、「まあ…いいですけど」と、ぶっきらぼうに答えた。


彼女は針を手に取り、丁寧にボタンを縫い続けた。口元に浮かびそうになる微笑みを、何とか飲み込もうとしながら。

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