ヒールの音が、天井の高い廊下にコツコツと響き渡る。
その音はまるで心臓の鼓動と同調しているかのようで、胸の奥から湧き上がる緊張を一層かき立てていた。ふと気づくと、指先が冷え切っている。
怒声、群衆のざわめき、そして城の外から押し寄せる緊張感――全てが耳に飛び込んできて、再び私の心拍数を一気に跳ね上げた。
数分後に訪れるであろう騒乱を思い描くだけで、足の震えが止まらない。それでも、引き返すわけにはいかなかった。
この状況を変えられるのは、私しかいないのだから。
イリスが仕掛けた陰謀により、アルファン様が破滅に追いやられる――そんな未来を何としても阻止しなければならない。
準備は整っている。この最後の舞台のために、部屋へ駆け戻り、最高に豪華な装いを身にまとった。すべては、この瞬間のためだ。
私は、ここで終わらせる。
震える足を無理やり踏みしめ、扉を開いた。目の前に広がるのは、押し寄せる民衆と義勇兵たちの姿。
覚悟を決めた私は、お腹の底から声を張り上げた。
「なんてお馬鹿なアルファン様!こんな私にまんまと騙されるなんて!」
「何を言っているんだ?!あの女は?」
誰かが叫ぶと、その声に呼応するようにその場の全体がさらに騒然とし始めた。
無数の視線が私を刺すように注ぐ中、私は必死に冷静を装っていた。だが、胸の内では激しい鼓動が響き、耳を塞ぎたくなるほどだ。
――失敗は許されない。ここでつまずけば、すべてが水泡に帰す。それだけは絶対に避けなければ。
微かに震える足を必死に踏ん張った。全員の視線が冷たく、鋭く私に突き刺さる。まるで自分が断崖の縁に立たされ、今にも足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
ふと、背筋が冷たくなるような強い視線を感じ、思わずその方向に目を向けた。
そこには、イリスが立っていて、怒りと冷笑を含んだ眼差しで私を睨みつけている。
(あなたの好きにはさせないわ、イリス。)
私は軽く鼻で笑ってみせて、心の中で宣戦布告した。
「私のような女に、一国の王子が騙されるなんて――滑稽な話よね。」
張り詰めた空気を裂くように、大きく響いた私の声。周囲はさらに混乱し、非難と困惑の視線が私に突き刺さる。だが、私は堂々と笑ってみせた。
――そう、私は悪役令嬢。憎まれる役を全うするのが、私の務めよ。
けれど、内心の動揺を隠しきるのは難しかった。震える膝をぐっと押さえ、背筋を伸ばす。
私は高らかに声を上げた。
「アルファンさまは、私に利用された哀れな被害者よ!」
怒号とざわめきが群衆の中で渦巻き、疑念が次第に広がっていく。その中心で、私はただ立ち続けた。
――イリス、あなたの思い通りにはさせない。
心の中でそう叫びながら、私はさらに声を張り上げた。
「殿下の密約も、すべて私が仕組んだこと。税金だって、私の洋服代に消えたわ!」
「あの女、気でも狂っているのか?!」という怒声が会場に響くと、瞬く間に城に集まった者たちの間で混乱が広がった。
目を見開いた者、眉をひそめた者、恐怖に駆られたように後ずさる者もいた。
「まだわからないの?あなたたちも、殿下も全員私に騙されたのよ!」
そのざわめきはまるで波のように、会場全体を包み込み、次々と波及していく。周囲のささやき声や疑念の声が耳障りなほどに混ざり合い、低い唸りのような音が空気を震わせるようだった。
「本当なのか…?」
「どういうことだ…?」
遠くで問いかける声が聞こえ、互いに肩を寄せ合い、不安げに話し合う民たちの姿がちらほらと目に映る。顔に浮かぶのは、
私は、悪女らしい憎まれ口を叩き続けた。
「アルファン様は、私に利用された哀れな被害者よ!」
その言葉が放たれた瞬間、まるで嵐が一気に引いたかのように、会場のざわめきは突然途絶えた。人々の声は消え去り、息を呑む音すら聞こえないほどの静寂が場を包み込んだ。喧騒で満ちていた広場は、一瞬にして凍りついたようだった。
「誰か!あの悪魔のような女に罰を与えて!」
イリスがその瞬間、鋭い声を上げた。 その途端、会場の空気が一変した。
「そうだ、そうだ!」という言葉が、さながら波紋のように広がり、群衆の中で一つの意見が形成されていった。
その声は次第に高まり、混乱と興奮の中でますます大きくなっていくと、どこからともなく男性が姿を現した。紫色の髪を持つ、美しい青年だ。
「リオネル様!」
イリスの澄んだ声が響き渡り、視線を向けると、紫の髪を持つ美しい青年が人混みをかき分け現れた。その緑の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。
リオネル…。
彼の唇が動く。次の瞬間、呪文の詠唱が耳に届くと同時に、全身を激痛が貫いた。
「ぐっ…!」
膝が崩れ、視界が歪む。息が詰まり、倒れ込んだ床の冷たさが背中に伝わる。耳鳴りが頭の中に響き、意識が引き裂かれるようだった。
――これで、終わり?
震える手を床に伸ばそうとするが、力が入らない。視界の端に映るのは、私を見下ろす人々の混乱した顔。そして、耳を打つ名前を呼ぶ声。
「クラリス!」
その声に、私はかすかに顔を上げた。アルファンだ。普段の冷静さを捨てた彼が、必死の表情で駆け寄ってくる。
「どうして…!なんでこんなことに…!」
嗚咽混じりの声が、胸を締めつける。彼の腕が私を支え、倒れ込む体を受け止めてくれた。
――ようやく、私を見てくれたのね。
激痛の中、私はかすかに笑みを浮かべた。
「最後に…こんな不恰好なあなたを見られて…満足よ。」
かすれた声でそう言いながら、彼を見上げる。その瞳に宿る深い悲しみを焼き付けるように。
「これで…少しは私のことを覚えていてくれる?…それとも、すぐに忘れてしまうのかしら。」
その言葉が耳に届いた瞬間、アルファン様の顔がわずかに歪んだ。
まるで何か大切なものを奪われたような、言いようのない痛みがその表情に浮かんでいる。
――これで、私の役目は終わりね。
ゆっくりと瞼を閉じると、視界は闇に包まれた。