コツコツとヒールの音が天井の高い廊下に反響し、静けさの中で彼女の心臓の鼓動が強調される。
この静けさが、一瞬だけ彼女の昂った感情を落ち着けてくれる。だが、その静けさも束の間、やがて耳に入ってくる雑音が彼女の心拍数を急激に上げていった。
数分後に起こるであろう騒動を想像するだけで、震える足が止まらない。それでも、彼女にはやるしかないという覚悟があった。
彼女以外には、この状況を変える者はいないのだから。あの女、イリスによってアルファンが破滅に追い込まれるまでに、何としても止めなければならない。
準備は完璧だ。この最後の舞台に備えて、彼女(クラリス)は急いで自分の部屋に戻り、高価な宝石を身にまとい、精一杯の豪華な装いで自分を飾ったのだ。
深く深呼吸をして、彼女は重いドアを押し開けた。目の前には、城の前に押し寄せた数多くの義勇兵や民衆の姿が広がっていた。アルファンの専属兵士たちも押し負け、突破されそうな状況に直面している。
彼女は心を決め、大きな声を張り上げて周囲に響かせた。
「お馬鹿な殿下、まんまと騙されちゃって!」
その声が会場に響くと、電撃が走ったかのようなざわめきが広がった。誰もが一斉に彼女に注目し、場が一気に騒然とした。
大勢の視線がクラリスに集中し、彼女は緊張で足が震えそうになった。油断すれば、一瞬で不安に支配されてしまいそうだったが、失敗は許されない。
今まで彼女はこのために血も涙もない悪役令嬢を演じてきたのだ。ここまできたからには、最後まで完璧に演じ切るしかない。
「私みたいな女に、一国の王子が騙されるだなんて。」
「何を言っているんだ?!あの女は?」
誰かが叫ぶと、その声に呼応するようにその場の全体がさらに騒然とし始めた。あちこちで囁き合う声、驚きと非難の混ざった視線が彼女を取り囲む。
クラリスは響くざわめきを背に、微かに震える足を必死に踏ん張っていた。全員の視線が冷たく、鋭く彼女に突き刺さる。まるで自分が断崖の縁に立たされ、今にも足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
息苦しさを感じながらも、彼女は懸命に立ち続けた。ふと、ひときわ強い視線を感じ、反射的にその方向に目を向ける。
そこにはイリスが、怒りと冷笑を帯びた瞳で彼女を睨みつけていた。
(あなたの好きにはさせないわ、イリス。)
彼女(クラリス)は心の中で宣戦布告した。
「私の言うことを聞いて、まるでバカみたい!密約も、私が結んだだけで、あのおバカな王子はただサインしただけよ。あなたたちの税金も、全部私の洋服代に使っちゃったわ!」
声が震えながらも、堂々とした態度で大げさに宣言した。
「あの女、気でも狂っているのか?!」という怒声が会場に響くと、瞬く間に城に集まった者たちの間で混乱が広がった。
目を見開いた者、眉をひそめた者、恐怖に駆られたように後ずさる者もいた。
「まだわからないの?あなたたちも、殿下も全員私に騙されたのよ!」
そのざわめきはまるで波のように、会場全体を包み込み、次々と波及していく。周囲のささやき声や疑念の声が耳障りなほどに混ざり合い、低い唸りのような音が空気を震わせるようだった。
「本当なのか…?」
「どういうことだ…?」
遠くで問いかける声が聞こえ、互いに肩を寄せ合い、不安げに話し合う民たちの姿がちらほらと目に映る。顔に浮かぶのは、猜疑心(さいぎしん)と怒り。何が真実なのか分からず、彼らの表情は困惑に包まれていた。
彼女(クラリス)は、悪女らしい憎まれ口を叩き続けた。
「アルファン殿下は、私に利用された哀れな被害者よ!」
その言葉が放たれた瞬間、まるで嵐が一気に引いたかのように、会場のざわめきは突然途絶えた。人々の声は消え去り、息を呑む音すら聞こえないほどの静寂が場を包み込んだ。喧騒で満ちていた広場は、一瞬にして凍りついたようだった。
「誰か!あの悪魔のような女に罰を与えて!」
イリスがその瞬間、鋭い声を上げた。 その途端、会場の空気が一変した。
「そうだ、そうだ!」という言葉が、さながら波紋のように広がり、群衆の中で一つの意見が形成されていった。
その声は次第に高まり、混乱と興奮の中でますます大きくなっていくと、どこからともなく男性が姿を現した。紫色の髪を持つ、美しい青年だ。
「リオネル様!」
イリスが声色を高くしてその名前を呼んだ。
彼女(クラリス)がその男と目を合わせた瞬間、見覚えのある緑色の瞳がゆらりと光った。その視線はじっと彼女を見つめ、何か言いたげだったが、言いかけてはやめた。
「キミにはがっかりだよ」と、低く呟くと、ボソボソと何かの詠唱を始めた。
「「ぐ…!」」
突然、体全体に強烈な衝撃が走り、クラリスの視界は一瞬にして歪んだ。まるで体の内部で爆発が起こったかのような激しい痛みが全身を貫き、彼女の呼吸を奪った。
心臓が急激に速く打ち、耳鳴りが頭の中を支配する。足元が崩れ、力なく膝が崩れ落ちる。彼女の視界には、周囲の混乱と人々の驚愕の表情がぼやけて映るだけだった。
クラリスの体はまるで重りを引きずるかのように、冷たく硬い地面に崩れ落ちた。
「わたし…このまま死ぬの…?」
激しい苦痛に顔を歪め、手が無意識に床を掴もうとするが、力が入らず空しく空を切る。
その瞬間、名前を呼ぶ声が耳に届いた。
「「クラリス…!」」
アルファン王子だった。悲痛な表情を浮かべ、普段の冷静さは完全に消え去っている。青ざめた顔に、いつも冷淡だった瞳は今や恐怖に染まり、異様に大きく見開かれていた。
「どうして…なんで、こんなことに…!」
その声はかすれ、嗚咽混じりで、彼の喉の奥から絞り出される。彼の声には絶望が滲み出ており、今にも彼女(クラリス)の崩れ落ちそうな体を必死に支えていた。
クラリスは苦しげな息の中、かすかに微笑みを浮かべた。彼の顔をじっと見つめ、か細い声で囁く。
「最後に…こんな不恰好なあなたを見れて、満足だわ。」
その言葉には、どこか皮肉が込められていたが、同時に深い切なさが滲み出ていた。彼女の瞳は、ほんのわずかな悲しみと愛情を宿しながら、彼を見つめ続けていた。
「これで、あなたも少しは私のことを覚えていてくれるかしら。…それとも、すぐに忘れてしまうの?」
クラリスは微かに微笑んだまま、力尽きたかのように静かに目を閉じた。