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配信始めます

「店長、俺バイト辞めます! 今までお世話になりました!」


 昨晩の出来事だ。

 俺は、一年半勤めていたコンビニバイトを辞めた。

 高校を卒業してから一番長く続いたバイトだった。


 俺の日常は、ルーティン化されたつまらないものだった。

 朝起きたらストレッチをする。

 リビングへ行くと、テーブルの上には母さん手作りのご機嫌な朝食が用意されている。

 レースのカーテンを通して柔らかくなった朝の日差しに包まれながら、優雅に食事をする。

 食事を終えたら歯磨きの時間だ。

 歯ブラシは極細毛で硬めというこだわりがある。

 強烈ミントの歯磨き粉が、口の中を爽やかな香りで満たし、一日の始まりを感じさせてくれる。

 お洒落好きな俺は、毎朝シャワーを浴びる。

 お気に入りのフローラル系の香がついたボタニカルシャンプーで髪を洗うと、とても気分がいい。

 鏡の前で髪を乾かしながら、マットなヘアワックスで髪形を自然に整えて、バイト先の近所のコンビニへ向かう。


 そんな毎日に嫌気が差した。

 バイトの安い給料でも、実家暮らしの俺なら必要最低限の生活は出来る。

 しかし、二十歳はたちになり、このままの生活でいいのかと考えるようになってしまった。

 食って寝て仕事して、たまに趣味に金を使う。

 平凡な生活の中に、ささやかな幸せを感じるのが人生だと頭では理解している。

 ほとんどの人がそうであると頭では理解している。

 でも、俺は変えたかった。

 刺激的な毎日を送りたいと考えてしまったんだ。


 今は、ベッドの上で寝転んで束の間の無職を満喫している。

 ヒューコンのシアター機能を使い、とある配信を見ているところだ。

 ワーキャスの日本キャスターランキング一位、タイキンさんの異世界配信だ。

 五万人以上の視聴者が常駐しており、多い時には三十万人を超える。

 タイキンさんの推定年収は数十億円と言われている。


 タイキンさんは、イグドラシアという異世界にワープし、『炎の勇者』というスキルを授かった。

 主な配信内容はダンジョン攻略なのだが、派手な火属性魔法と勇者の身体能力を活かした迫力のある戦闘が視聴者をとりこにしている。

 時折、異世界の商品紹介なんかも混ぜながら、見ている者を飽きさせない工夫も素晴らしい。


 キャスターの収入源は、広告掲載料、サブスクライブ、マネーチャットだ。

 ワーキャスの仕様で、サブスクライブしたキャスターの配信には広告が流れなくなる。

 ダンジョンのボスにトドメを刺す瞬間に広告が流れでもしたら、臨場感が台無しになってしまう。

 戦闘メインの配信では常に何が起きるか分からないので、お気に入りの配信者のサブスクに入らざるを得ないのだ。

 非常に良く出来たシステムだと思う。


 そして、俺が踏み出そうとしている新しい一歩が、このワーキャスのキャスターなのだ。

 日本では既に千人以上のキャスターが居るが、遊んで暮らせる程の金額を稼いでいるのは一握りだ。


 実は、始めるにあたって悩んでいる事がある。

 現在キャスターには三パターンあり、一つがリセマラと呼ばれる手法で、異世界へ行きスキルを確認してハズレだった場合は地球に戻ってリセットし、アタリのスキルが出るまでこれを繰り返す。

 ハズレが出ても笑えるし、アタリが出たら盛り上がる。

 手に入れたスキルでどんな活躍をするのかと期待する固定の視聴者がつくというやり方だ。

 二つ目が、お願いガチャと呼ばれる手法で、配信の始めにリセットしない事を宣言して異世界へワープする。

 この場合は、アタリスキルだとあまり面白くないが、ハズレを引いて悪戦苦闘する様を見せると人気が出る。

 三つ目が、ぶらり旅配信だ。

 色々な場所へ行き、美しい景色を見せたり、美味しい物を食べて上手にレポートする。

 この手法で人気のキャスターは、容姿がいいか表現力が抜群かの二択なので、俺には難しいかもしれない。

 一つ目か二つ目かどちらを選ぶかが勝負の分かれ目だと思っている。

 結局は配信を切り抜かれたり、掲示板で話題にあがったりと、それがバズるかどうかの運要素が強いという話なので、とりあえず始めてみないとなんとも言えないのだが。

 やはり、危険の少ないリセマラの方が安パイだろうか。


 ぼーっと考えながらヒューコンが映し出すビジョンを眺めていると、タイキンさんがダンジョンボスをあっさりと倒してしまった。

 コメント欄では凄い数のマネーチャットが流れている。

 数時間で何百万と稼いでしまう非現実的な光景を目の当たりにして、やる気がみなぎってきた。


「よし、俺もやるぞ! タイキンさんみたいに大金持ちになってみせる!」


 ベッドから立ち上がり、両頬を叩いて気合いを入れた。

 バイトを辞めた後、親にはキャスターになる事を伝えてある。

 もう後戻りするつもりは無い。


 ヒューコンの検索機能で、まだキャスターが降り立ったことの無い異世界を検索する。

 人気キャスターになる為には、無限に存在する異世界の中から前人未踏の世界を選ぶ事も重要なのだ。

 俺は、ラドリックという世界を選んだ。

 太陽のような恒星と月のような衛星があり、地球と環境が類似しているようだ。

 それほど文明が発達していない世界だが、魔法やモンスターが存在し、地球とは異なる生態系になっている。

 タイキンさんが活躍している世界と同じくダンジョンがある事も確認済みだ。


 ワーキャスに接続し、自分のアカウントにログインして配信の準備をする。

 タイトルは、『初キャスです。異世界ラドリックへ旅立ちます!』と無難な感じにしておいた。

 これから配信を始めると思うと急に緊張してきた。

 心臓がのどから飛び出しそうだ。


「ふぅ、ふぅ、いくぞ……いくぞ!」


 意を決して配信をスタートした。

 配信画面には、俺の視界に映る殺風景な部屋が映っているはずだ。

 今始めたばかりなのに、視聴者が五人も来てくれている。

 ここはやはり挨拶から始めるべきだろう。


「あ、あー。えっと、初めまして勇太ゆうたって言います。これからラドリックという異世界に旅立ちます。応援よろしくお願いします!」


コメ:初見です!

コメ:リセマラですか?


 もうコメントが流れている。

 誰も見てくれなかったらどうしようかと不安だったので、素直に嬉しい。


「今のところリセマラを考えています。俺、運動音痴だし喧嘩もした事がないから、すぐ怪我しちゃいそうで……」


コメ:気持ち分かりますw

コメ:アタリのスキルだといいですね!


 初配信には、荒らしと呼ばれる心無い発言を連投するやからが出ると聞いていたので、温かいコメントばかりで安心した。

 荒らしは無視して即ブロックだ。

 放置したり構ったりすると、チャット欄で言い争いに発展してしまうからだ。


「一応フルタイム配信なので、トイレの時だけミュート推奨しときます。切り抜きは自由にアップロードして頂いて構いません」


コメ:体張ってますね!

コメ:切り抜き自由はありがたい。


 配信中に盛り上がった場面を短い動画にする切り抜きは、キャスターの人気に深く関わってくる。

 とぅいっとパラダイス、通称とぅいパラと呼ばれるSNSにアップロードされる事が多い。

 切り抜き動画でも収益が発生するので、視聴者は新しくバズりそうなキャスターを常に探している。


 日常を包み隠さず放送するフルタイム配信では、戦闘の様子から寝言に至るまで、様々な切り抜き動画が作成される。

 それ故、一番バズる確率が高いのがフルタイム配信だと言われている。


 ワーキャスには年齢制限だとかのレイティングは設けられていない。

 極端に言えば、何が映ってもそのまま配信される。

 以前、美しい景色をレポートしていたアイドル系のキャスターが突然モンスターに襲われ、宙に舞った首が崩れ落ちる自分の体を見ているという恐ろしい切り抜きを見たことがある。

 何が起こるのか分からないからこそ、視聴者は食い入る様に配信を見るのだ。


 さて、コメントと実際に会話出来るのはここまでだ。

 異世界に行ったら、キャスターコメント欄を使用して視聴者と会話をするのがマナーとなっている。

 向こうの人からしたら、俺が配信しているなんて知らないからだ。

 一人でぶつぶつ喋っていたら変な目で見られてしまう。

 周りに誰も居ない時なら会話してもいいのかもしれないが、基本的にそれをやっているキャスターは居ない。


「じゃあ、行きますね! 街ランダムでやろうと思います!」


勇太:問題無くコメント出来てますかね?

コメ:見えてるよ!

コメ:行ってらっしゃい。

勇太:行ってきます!


 ヒューコンの超長距離間ワープ機能にラドリックの座標を設定した。

 何処かの街へランダムに飛ぶようにしてある。

 完全ランダムだと、ワープ先が運悪くモンスターの目の前だったなんて事があるので、即死する可能性を考えてそれはやめておいた。

 お願いガチャ完全ランダムワープが最も視聴者数が伸びる可能性のある配信方式らしいけれど、死亡率も同様に高いようなので、俺にはそんな危ない橋を渡る勇気はない。


 ワープを起動すると、まるで体が溶けるような、今まで経験したことが無い不思議な感覚に包まれた。

 これが魔素と肉体が融合している状態なのだろうか。

 意識だけが宙にあるような気持ち悪さがある。

 謎の浮遊感を感じると、眩い光で目が開けていられなくなった。


 かかとを少し上げて落としたような小さな衝撃を足の裏に感じた。

 どうやら異世界に着いたみたいだ。

 まぶたの裏から光が収まっていくのを感じていると、ヒューコンから通知が来ていた。


「体に異常を検知しました。スキル『絶望的な滑舌』により、滑舌が悪くなりました」

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