俺が異世界に転移したときに女神から与えられたスキルは「醤油精製」だった。
なにを言っているかわからないかもしれないが、俺は異世界に転移した際に、左手の中指から醤油が自由自在に出てくる体になってしまったのだ。
俺は普通の社会人(35歳)だった。
もちろん日本人であるからには醤油味はそれなりに好きだが、醤油を手作りしたこともなければ、卵かけ専用醤油などに金をかけたこともない。特別醤油と縁の深い生活を送っていたわけではないのだ。
それだというのに、トラックにはねられて異世界に転移したら、びっくり醤油人間になっていたのである。
転移した世界はいわゆる剣と魔法のファンタジー世界で文字はカタカナを使っていた。ここにはいろいろなスキルを持っている人間がいるが、誰に聞いても間違いなく俺のスキルは外れである。
それもそのはず、この世界は前の世界でいうところの「ギリシャ料理」っぽい味つけが主流なのだ。オリーブオイル、レモン、ハーブ、ヨーグルトソース……。
醤油なんて、お呼びではないわけだ。
*****
待ち侘びていた客人がやってきたのは、約束した時間ぴったりだった。
「やあ、あなたがジロウ?」
客人は気安く片手をあげて俺の向かいの席に座った。
「はい。シルマレッティさん。はじめまして」
「ふふ、シッティって呼んでよ。仲良くなろう」
彼は肩まで伸ばした金色の髪を耳にかけ、青い瞳を三日月形にして笑った。
待ち合わせをしていたのは地方都市ガレサにある若者に人気のカフェだ。焼き菓子の種類が豊富でどれも美味しそうであるが、節約生活を強いられている俺は指を咥えて紅茶一杯を注文した。
シッティはたくさんの焼き菓子を選び、それらが運ばれてくると、気前よく給仕人にチップを握らせた。
俺は熱々の紅茶をひとくち啜ってから、切り出した。
「その、本当なんですか?」
シッティは身を乗り出して、うなずく。
「もちろん」
「本当に、俺を雇ってもらえるんですか?」
「うん。僕が雇うよ。あと、敬語はやめて。仲良くなりたいんだ」
そう言って、彼は一枚のカードを取り出した。カードは銀色で、一番上にシルマレッティと名前が刻んである。
「これが僕のジョブカード」
覗き込むと、そこには「ワショク リョウリニン」とあった。
この世界では10歳になったときに女神から「スキルカード」と「ジョブカード」を与えられる。スキルは能力、ジョブは適正のある仕事を示す。このスキルとジョブはうまく噛み合うこともあれば、まったく関係のない場合もある。
ちなみに俺のジョブは「イセカイ ジョゲンニン」だ。これのおかげで国に保護してもらえたのだ。少なくとも、醤油精製スキルよりは役に立つ。
シッティが話し続ける。
「ずっと疑問だったんだ。料理人はともかく、ワショクって何なんだろうって。調べても、異世界の料理、としか出てこなくてさ」
シッティは一拍おいて、俺に向かってウィンクした。
「で、あなたの存在を知ったんだ」
シッティはどこからか異世界からやってきた俺の噂を聞きつけて、こうして俺を雇うためにはるばる王都からやってきてくれたのだ。
異世界からの来訪者は、この世界では珍しいことは珍しいが、まったくいない、ということはないくらいの存在だ。有用な知識をもっていることもあるため、国もある程度は保護してくれる。
俺もこの世界にやってきてすぐの頃は国に保護されて、文化や生活の基本を習った。そして2年の保護期間を経て、いざ自立、というときにスキルが原因でつまずいて極貧生活を余儀なくされているわけだ。
そんな俺にとって、目の前の人物は救世主である。
「うふふ。楽しみだなぁ。ワショク。僕、ふつうの料理人として12歳からもう10年も働いてるけど、そんな料理、食べたことないや」
シッティは心から楽しそうである。事前に交わした手紙のやりとりによると、彼は王都でレストランの料理長をしているそうだ。料理は主にこの国の伝統的な料理を出しているも聞いた。
彼のジョブカードが「和食料理人」であるなら、そのレストランで出している料理はすべてジョブカードに関係なく、彼の実力で作ったものになる。スキルとジョブが人生を決めるといっても過言ではないこの世界で、それらに頼らず実力で出世するというのはとてつもないことだ。
俺が口を開く。相手は俺よりだいぶ年下ではあるが、俺の雇い主になる。しかし彼は敬語はなしで話せという。俺は言葉を選びながら話した。
「本当に、雇ってもらえるなら、助かる……よ。俺、ずっと仕事が見つからなくて……。食うのにも困っていたくらいで」
「そうなの? でも、確かにあなたのスキルで異世界人じゃあ、苦労するよね。でも大丈夫。これからあなたの面倒は僕がみるよ」
シッティが胸を叩く。俺は感謝でいっぱいになって、頭を下げた。
「やめてよ。僕もジョブカードを生かしきれなくて困っていたんだ。お互い様、でしょ? そうだ、早速だけど、「ショウユ」。ひとくち舐めてみてもいい?」
彼に頼まれて、俺は紅茶についてきていたスプーンの上に醤油を数滴たらした。
シッティは目を輝かせてその茶色いしずくを見つめた。
「これがショウユ……ワショクの調味料!」
彼は実に料理人らしく、匂いをかいだり、色を見たあと、ゆっくりとそれを口に運んだ。
「しょっぱーい……」
この世界にやってきてから飽きるほど見た反応に、俺は苦笑した。
「メインのソースというか、味に深みを出したりするために使うことが多いんだ」
俺が醤油を擁護すると、シッティはうんうんとうなずいた。
「へえ。これは工夫のしがいがあるや」
「そう言ってもらえると、嬉しい」
シッティは立ち上がる。話し方や所作は少年っぽさの残る彼だが、立ち上がると175㎝の俺よりもさらに大きかった。
「さて、じゃあ話もまとまったことだし、行こうか。ジロウ、荷物は?」
「これだけだ。政府の簡易宿泊所を利用して生活しているからな」
答えると、彼は俺が足元に置いていたリュックをひょい、と持ち上げてさっさと歩き出してしまった。
「シッティ、自分で持つ」
「いいよ。これくらい」
彼は頑として俺の荷物を譲らず、そして彼が頼んだ大量の焼き菓子を持ち帰り用に包ませると、その包みの方を俺に投げてよこした。
「プレゼント」
「ええ、っと、ありがとう」
俺はちょっと反応に困った。こちらの世界にやってきて2年。まだこちらの常識には疎いが、年功序列という考えがないことや、雇い主と労働者の関係が日本よりも厳格であることは知っていた。ここに労基署なんていうものはない。雇い主が解雇といえばその日のうちに路頭に迷う世界だ。よって、労働者にとって雇い主は神にも近い。
シッティとどのような関係を作っていくべきなのか、日本の社会に揉まれすぎた社会人には難しい課題だ。
カフェを出ると、そこには立派な紋が入った馬車が止まっていた。紋が入った馬車といえば貴族や大商人たちの乗り物で、庶民は乗り合いの紋なしの幌馬車――ただし驢馬が引いているもの――に乗ることが多かった。
シッティは紋が入った馬車を指差した。
「迎えの馬車だよ」
「ええ!?」
馬車には孔雀のような尾の長い鳥と麦の紋が入っている。ただのレストランの料理長が乗るには豪奢すぎた。
「ええと、シッティって、レストランの料理長、だよな?」
「うん」
まさか王都にあるという田舎者を狙うぼったくりレストランか、という俺の疑惑の念が伝わったらしく、シッティは吹き出した。
「いやだなぁ、怪しまないで。……僕のレストランはウィンテスト宮殿の中にあるんだよ」
「ええ?」
「王様専用レストラン、っていえばわかりやすいかな? 馬車も王宮から借りてきたんだ」
「ええええ!?」