目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第一章

「やれやれ、どこで付いたのか。今朝、十分に払い落としたつもりだったんだが」そう言って石原は立ち上がり、服に付いている土埃を払い落とした。

 まだエリックの寂し気なメロディが耳に残っている。演奏が終わって十分以上は経つというのに……。心に染み入るようなその旋律が頭の中で何度も繰り返されている。

 石原はしばらくの間、ぼんやりとその余韻に浸っていたが、店員がやってきたことで、ふと我に返った。

 アメリカンコーヒーにエッグベネディクト。いつも変わらないメニューがテーブルに並べられる。朝くらいはルーティーンを守らないと、その日、一日のリズムが崩れてしまいそうで怖い。

 この生活をかれこれ、もう十年は続けている。しかし今日はリズムが崩されてしまった。

 石場は窓際の席で新聞を広げて一息ついた。この町だけに発行される地方新聞だ。まず一番先に目に飛び込んできたのは、失踪した音楽家の親友であるエリックのインタビュー記事だ。記事によれば、彼女はエリックにも何も告げずに突如として姿を消したということだった。

 エリックと彼女は長い付き合いであり、エリックは彼女の音楽に対する情熱や才能、そして出会う人達に対しての真摯な姿勢をよく知っていた。その彼女が誰にも何も言わずに姿を消すなんてことはありえない。

 失踪の概要はこうだった。


謎に包まれた失踪。彼女はどうして消えたのか

《ある日の晩、音楽家のエミリア・ハートフィールドは、愛用のヴァイオリンを抱えてステージから消えた。彼女は名声と才能を持ち、世界中で称賛され、この町にやってきた。きっと、この片田舎の小さな町に癒しを求めてきたのだろう。彼女が姿を消して以降、人々を魅了するあの音色は聴くことができなくなった。彼女がいなくなった音楽ホールやカフェは静寂に包まれ、観客たちは驚きと不安に満ちた表情を浮かべたままだ。彼女は音を操る天才であり、彼女の演奏は多くの人を魅了した。彼女の音楽がどこかで響いていることを信じたい。またいつの日か、この場所に戻ってくださることを祈って……》


 先ほどから周りの人たちが話していたことは、このことだったのか。失踪した。行方が分からなくなっただの、一体、何のことかと思っていたが。

 コンサート前に突然の失踪、確かにセンセーショナルな話かもしれない。しかし、ここは田舎だ。都会からやって来た人間がある日、突然いなくなるなんて、何も珍しいことではない。なんせ陰湿な奴が多く住む町だ。嫌気が差したに違いない。特に女性は大変だったのではないか。都会とは違って、未だに女性蔑視の考え方が蔓延している。この町で活動したって、大して金にもならず、地位や名声を手に入れることもできない。この町に居続ける理由を探す方が難しいくらいだ。それなのに、戻ってくることを祈るって……。こんな所に戻って来るわけないじゃないか。

 きっと彼女は装飾された綺麗な側面ばかりを見て、田舎に幻想を抱いていたのだろう。家庭に恵まれ、自分の好きなことだけをやって過ごしてきたような人には、この町の現実には耐えられなかったはずだ。人知れず苦しんでいたことだろう。

 どうやら事件にもなっていないようだし、これは単なる失踪だ。

 しかし、あの人が失踪とは……。あれだけ人気があったんだ。今頃、あちらこちらで大騒ぎしているのに違いない。

 石場は大きく溜息をついた。いつもなら快適な一日が始まるというのに、なんて今日はついていないんだ。川のせせらぎの音や鳥たちの声も聞こえやしない。

 石場は周囲から聞こえる騒めきにうんざりしながら席を離れた。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?