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8 照明がおちたあの部屋には、今もレコードが回っている



 これは、一介の医者が話していいことではありません。

 だがこの物語を語り継がねばならないと、僕は強く感じました。

 僕は、医者をしています。

 難しい病気についてみています。ただ特に凄い名医というわけではありませんが、それなりに、ひっそりと患者さんを見ています。ある梅雨の日、病棟の花壇に紫陽花が咲いて子供が集まっているとき、その女性は運ばれてきました。


「……ひ、ひどい」


 先輩がそう言いました。僕はそれをみてぞっとしました。彼女は事故にあったそうです。車の事故です。そしてその事故で、娘を失ってしまったらしいのです。僕は心を痛めました。まだ齢四歳の少女の命が無くなった。その事実だけでも酷く苦しんだ。だが、それだけではなかったのです。


「聞こえますか? 聞こえますか」


 先輩は必死に叫んでいた。その女性は担架に運ばれながら、虚ろな目をしていた。僕は絶句した。彼女は娘と巻き込まれて事故にあったのだ。そしてその事故で、自分だけ生き残ってしまったのだ。

 病院に駆け付けた夫と、直接会ったのは僕だった。


「里奈は?」

「まだ分かりません」

「……乱花は?」


 僕はありのまま伝えると、彼は崩れ落ちた。そして表情筋が動かなくなって、色素が抜けたようにぐったりとした。僕は彼の肩を掴んだ。そして言う。


「奥さんはまだ生きています」

「…………」

「早まらないでください」


 僕はそう伝える事しかできなかった。それが正しい選択だったのかはわからない。それがよかったことなのかは、分からない。でも僕はそうするしかなかった。もう二度と、悲しんでいる人を見逃さないように。

 奥さんは生き残ったが、精神が壊れてしまったようだった。だが外傷が酷く、しばらくはこの病院にいなければならなかったから、僕は気になってちょくちょく病室を見に行ったし、夫の方がよく僕に話しかけてくれた。


「里奈は不思議な人だったんです」

「不思議なひと?」


 僕が聞き返すと彼は頷いた。


「基本的に経験則で物事を語るし、そう言う面では頼もしいんですけど。でもたまに過去の事を考えているみたいなんです」

「何か昔にあったんです?」

「色々あったようです。わたしは彼女の小説しか読んでいないので、実際どうだったか分かりません。でもたまに、とても考え込んでいるんです。その姿がとても儚くて、いまにも彼女が消えてしまいそうな感じでした」


 僕は風に揺れ、白い衣を揺らす美少女を思い浮かべることができた。


「……その感じは、分かるかもです。僕もたまに奥さんの部屋に様子を見に来るのですが、綺麗なお方ですからね」


 素直に言うと彼は頷いた。


「何とも言えないんですよ。あの子の魅力は。纏う儚さ、喋る言の葉、人によっては寒いのかもしれないけど、とても意味があるんです。あの子はよく「あなたに生かされている」というのですが、わたしも、あの人の生かされているんです」


 そう言うと旦那さんは途端にすすり泣き、両手を口の前で歪めて崩れた。

 僕はそんな旦那さんの背中をさすった。

 彼もまともな精神状態ではなかった。それはそうだ。彼らは子供を無くし、そして奥さんは意識不明。旦那さんは一人残され、悲しみを吐露できる人もいないときた。そんな旦那さんに 僕は同情した。……僕も過去に、果てしない無力感に苛まれたことがある。だから余計に、辛くなった。


「……わたしはとても辛い。今にも、いまにも」


 旦那さんは、右手を蒼穹そらに伸ばした。そして太陽の光に願うように、呟いた。


「彼女は特別な存在なんです。わたしにとっては」

「……」


 僕は彼の背中をさすり続けた。


「……ありがとうございます」


 彼は擦れた声で言う。


「いいんです。田舎の病院ですから、人手は足りています」

「……ありがとう」


 僕と旦那さん、――真猿さんとの交流は、それから長いこと続いた。


 とある晴れの日、彼は妻の事を教えてくれた。

 ――妻は売れない物書きなんです。ファンもあまりいないし、とてつもない人気がある作品を描いている訳ではない。でも彼女は創作に対して真摯であり、いつも誰かのための小説を書いている人でした。


 とある星空が美しい日、彼は自身の事を語る。

 ――わたしのペンネームは妻が考えたんです。「プレイヤーになるなら、名前を考えなきゃね」と妻が言い「そうだね」とわたしが言って「何がいいかな」と続けた。そしたら妻は「名前から取ったら? 逆さまにしてみよ」と助言してくれて「……ルサマテイ?」とわたしが名前を逆さまにすると、彼女はいきなり「ルサは取った方がいいかもね」と、笑いかけたんです。わたしはどうして? と訊きました。そしたら妻は言うんです。「loserだから。プレイヤーになるなら、やっぱり厄除け大事だよ」だからルサを取って、マテイ、マーティ。なんです。

 彼は言い終わると微笑んだ。


 とある暖かい日に、見知らぬ女性と真猿さんはやってきた。

 里奈さんの友達の渡辺沙織(わたなべさおり)という人だった。彼女は僕に挨拶をして、一緒に病室で話した。


 ――里奈は人当たりだけは良い人だった。ある日、あたしに連絡をよこしてね。「どうしたのいきなり?」というと彼女はメッセージで言ったの。「あなたの話を聞かせてほしい」って。

 僕はそれに不思議がっていると、沙織さんは言った。

 ――あたしの心情を書きたいんだって。あの時どう思ったのか、そしてあなたの話が聞きたい。創作にしたいんだ。って。まさか、あたしの作品が出来るとは思わなかった。

 僕は驚くと、沙織さんはスマホでその小説を見せてくれた。


「こ、これが……」


 一通り読んだが、正直、よくわからなかった。沙織さんは僕の顔をみて、やっぱりかと笑う。

 ――そうでしょうね。でも、これがあの時のあたしの悲しみだった。悲しさを忘れて、記憶の奥底に封じ込める。癒しなんて都合のいいものは、そういうタイミングでしかやってこない。だから実際、悲しいなという感情は、無視するしかない。でも、彼女は違った。彼女は悲しさを作品にした。どうして悲しいのか自分勝手に連ねて書いた。そういう事に長けた文才をもっていた。のかもね。べつにあたしは小説をよく読まないから知らないけど、彼女と出会って知ってしまった。


 僕は「何を?」と訊くと。


「悲しんでいていい。ってことを」


 沙織さんはそう言って、子供の事があるのでと里奈さんの顔を見て帰った。

 それを聞いて、僕はネットで彼女の作品を、読むようになった。

 一般文芸として読んだとき、変な言い方と変な表現から、確かにこれは自分勝手な小説だなと思う所はあった。でもその先に人間がいて、その人が『何』を伝えたいのか、という意図を組むつもりで読んでいると。突然面白く感じた。

 他人の価値観について共感し、そしてその人がどういう選択を取るのか。僕は特段、そういうのが好きである訳ではなかった筈なのに、一度その悲劇が染み入ってしまうと、抜け出せなくなった。作品の中には色んな人物が登場した。この小説は恐らく沙織さんなんだろうなというのもあったし、旦那さん、そして――工場の男の子の話があったとき、僕は驚いた。それは、何やら変な覚えがあったからだ。


「……なるほどね」





 僕らは彼女が目覚めるのを待ち、それからきっかり一年が経過したときだった。

 僕が病床の傍に座っていたとき、彼女はむくりと起き上がった。既に一年間でそれなりに傷は癒えており、体は動けるような状態だった。でもいきなり起き上がったせいで、彼女はバランスを崩しかけ、僕は彼女を支えるように飛びついた。


「……」


 そうしてやっと、僕と彼女は目が合った。瞳には、芯が入っていた。


「あなたは?」


 彼女はぽつりとそう言った。


「僕は青木といいます」


 しっかりと自己紹介して、すぐに状況を説明した。事故に巻き込まれたこと、旦那さんのこと、沙織さんのこと、説明している間に真猿さんが病室に駆け込んできた。真猿さんは大泣きしながら車を運転したため事故りかけたと頭の裏を搔きながら不器用に笑った。そして里奈さんと目が合って、真猿さんはほっとしたような顔で……。


「おかえり」

「……」里奈さんはきょとんとした。そしてふっと笑って。

「ただいま。やっと全部乗り越えて来たよ」

「そっか。乱花は……」

「知ってる。それも読んできた」


 ――「読んできた」変な事を言うなと思っていると、


「……そうか」


 何故か真猿さんは意図を組んだらしく目を細めて笑って、里奈さんに近づいた。そして亡くなった娘さんの写真を一枚財布から取り出して、


「顔見るか?」

「……うん」


 僕は間に入って、まだメンタルが安定していないだろう里奈さんに、事実を突きつけるべきではないと言おうとしたが、一歩遅かった。でも里奈さんはそれを知っているような顔で見て、


「ごめんね、守れなくって」


 と涙ながらに言って、


「ちゃんと、会いにいくからね」


 口もとを歪ませながら呟いた。真猿さんがそんな彼女の頭を撫でて「一緒にお墓に行こう」と言った。そこから続々と人が里奈さんの部屋へ到着し、彼女の全快を喜んだ。その日の夜空は、雲一つない素晴らしい夜景だった。



 全てが落ち着いて、僕は彼女に退院を知らせにやってきた。その日は梅雨終わりの静かな朝で、病院の花壇の紫陽花がしおれはじめている頃だった。

 室内を覗くと、里奈さんは外を見ながらスマホでぽちぽちと何かを綴っていた。その顔は、とても生気に溢れていて、悲しみの渦中にいるというのに、確かに前を向いていた。

 僕はコンコンと扉を叩いた。


「どうぞ」

「失礼」


 端的に退院について教え、薬の話をして、業務でのことを粗方終えた。


「ありがとう」

「いえいえ、仕事ですから。それと里奈さん」


 僕がそういうと、彼女は振り返って、「なに?」と訊いたので。





「僕は魔王と会ったから、医者になろうと思ったんですよ」





 そう伝えたときの、彼女の驚きの表情を、僕は忘れない。




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