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7 その為の部屋だった


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――――――――

――――

――



 私は本を手から離し、崩れ落ちた。


 猪照真猿は、どうやら私の夫らしい。私は、私は……。


 身に這い寄るのは、見知らぬ記憶への恐怖ではなかった。まるで、静かな膜みたいなものだ。その膜は私に覆いかぶさると、私に年齢の感覚を与え、私に彼の感情を与えた。クラシック流れる部屋で、聞こえ始めた雨音に私はしんみりと耳を傾けた。何故か外では雨が降っているみたいだった。

 体が水に浮いているような浮遊感、そして、やさしい香りがした。

 どうやら、記憶の蓋が大きく開いたようだった。

 途端、背後で扉が開いた。


「…………」


 私はすぐ振り返る事ができなかった。雨音と、身を包む薄い膜のせいだった。でも時間をかけてゆっくりと、私は振り返った。

 そこには人間が立っていた。服装的に男性だと思う。黒いスーツを着ているようだった。徐々に視点を上げていき最後に顔をみたとき。絶句した。


「顔は見えないでしょ?」


 驚く事に、男性の頭部は鉛筆でぐしゃぐしゃと書いた落書きみたいなもので隠されていた。


「誰?」呟くように訊く。

「マーティですよ、わたしは」彼はそう答えた。


 確かに聞き馴染がある声だった。暖かく優しさがあり、問いかけるような喋り方をするマーティの声だった。


「……体あったの?」

「正確にはありませんでした。あなたが本を読んだから獲得したのです」

「どういうこと?」

「いずれ分かります。とにかく、わたしがこの場所に現れた、現れることができたというのは、きっとそういうことなのでしょう」


 彼はまた意味深な言葉を残し、私を混乱させた。


「リナ、いいや、里奈さん」

「……はい」

「あなたは今、目覚めようとしているんです」

「――――」

「夢の中から」


 彼はまた問いかけるように言った。私はそんな彼に、こんな言葉を投げかけた。


「ここは夢の中なの?」

「正確にいうならば多少違います。ここはあなたの、精神世界です」


 精神世界。彼はそう言うと、右手で本棚を指さした。


「あなたが読んでいた他者の本は全て、あなたが現実世界で書いた創作物です」

「え?」


 私はそう言われて、ふとそんなわけがないと思った。いや、確かに確実に否定できるわけではないのだけど、私の中から生み出された創作なら、話が少しリアルすぎるんじゃないかと思えたのだ。

 つまるところ、あの他者視点の話を想像で片付けられるきがしなかった。


「疑問はごもっとも。ですがそれも、次の物語に触れれば分かります」

「……じゃあ、あなたは私の妄想なの?」

「――……」


 マーティは黙った。


「違います。これも、厳密に言えば」


 と、マーティは絞り出すように言った。私はそれを聞いて「そう」と真下をむいた。


「やっぱり何も教えてくれないのね」


 そう自暴自棄に私は突き放した。


 整理ができていなかった。私は自分が里奈であるのを感じている。でも同時に、もっと大きな確信が未だ無い気がした。何故この場所(精神世界)に閉じこもっているのか、どうしてマーティが体を手に入れたのか、どうして、どうして。

 溢れている。

 何故いま雨音が聞こえるのか、どうして体が動かないのか、どうしてこんなにも悲しいのか。


 一切合切に押しつぶされる感覚があった。

 頭の中に混在した情報、景色、それらに押しつぶされ苦しむ感覚があり、それに加えて――もっと大きな絶望が、封じられた記憶の奥底で蠢いている気がした。

 私はまだ、とても大事なことを思い出していないのだ。


「ぁ」

「……」

「……あ、せりすぎました。ね」

「…………」

「……里奈さん」

「…………」

「一度、休みましょう」

「………………」


 深刻そうにマーティは言った。私はそれに沈黙した。

 彼はなぜか焦っている様だった。そして急いた声で、


「あなたがどうしてここ(精神世界)にいるのか、その理由を一つだけ教えます。恐らく教えなくても、あなたなら勘ずいているかもしれませんが、言います」


 マーティはやけに勿体ぶる。私はそれに沈黙した。


「あなたは現実世界で一度壊れてしまったんですよ」


 ……私はそれを聞いて、彼の方をむいた。黒いモヤがかかっていても、何となく彼が、必死で、泣いていることが分かった。彼は情けない声で泣いた。泣いていた。


「なぜあなたが悲しそうなの?」私はふと訊いた。

「それは、きっとっ、わたしが泣いているからだと思います」


「…………」答えにならない言葉に、私は沈黙した。でも、その彼の泣き声は、私の虚無な心に何かを垂らしていた。私はその正体について、考えていた。


「とにかくあなたには時間が必要だった。時間がいるんです。あなたは、あなたは、現実世界に向き合う時間が必要なんです。休みましょう。また、壊れてしまいます」

「…………そうはならないよ」

「なるんです」

「…………」

「みてきたんです。わたしは」


 私はまた沈黙した。どうして彼は泣いている? 私なんかに、どうして泣いているのだろう。彼は私の妄想の存在のはずでは。


「…………そうか」


 彼はいきなりそう呟いて、右手を壁について俯いた。そして彼はぼそっと言った。


「………………………………だめなのか?」


 そんな彼をみて、私は震えた。


 腕に力が入り絨毯を強く握った。私は立ち上がって、彼の元へ歩いた。気が付くと、私の身長はとても伸びていた。年相応になったのだろう。

 シワが目立つ右手を彼に伸ばした。大きくなった体の感覚が気持ち悪いようで、よく馴染んだ。私は歩き、そして、彼に触れた。


「……ねえ、やっぱりあなたは、不器用ね」

「ぇ」


 私の言葉に、彼はこと切れるように呟いた。彼の顔はまだ見えなかった。でも、私はそのとき、その顔がとても見たかった。彼の泣き顔をみたかった。あまりしないから、みたかった。私は微笑んだ。彼に微笑んだ。そしたら彼は、一緒に地面に崩れて、私の手を触った。

 彼には温度があった。


「そっか」


 私は確信した。マーティにやっと触れて、顔は見えないけど、顔の造形を触って確かめた。その触り心地には身に覚えがあった。そして、呟いた。


「猪照真猿は、あなたなのね」


 囁くと、彼は身震いした。それに、分かりやすい肯定を彼はみせなかったが、彼の沈黙を私は肯定と受け取った。

 妄想の彼がこんなに泣いている。いや、彼は妄想だが、きっと……確かに現実世界で沢山泣いているんだろう。私は彼を待たせているのだろう。私はこの人を置いていっているのだろう。私は、この人を、愛しているんだろう。


「最後の本を読むわ」


 私はゆっくり立ち上がり、雨音に耳を傾けた。雨音に交じって車のハザードランプが聞こえていた。すると彼は背後で弱弱しく呟いた。


「……そんな、まって」


 彼がそう言うが、私は振り返らなかった。そこに居たのはきっと、私が覚えている猪照真猿なのだろう。だから私は振り返らなかった。振り返ってしまうと、強がっているのがバレてしまうからだ。

 でも勘違いしてはいけない。

 私は強がりが、いけないこととは、人生で一度も思わなかった。


「大丈夫だよ、全て思い出してきて、じんわりと胸に灯った気持ちがあるの」

「ぇ?」

「私はもう迷わない。私はもう、後ろをみないわ」

「……」


 私は強がる人生だった。

 弱いくせに強がって、

 等身大の悩みに振り回されて、

 誰にも愛されなくて、

 自分でも自分を愛してやれなかった。


 そんな悲しい人生を、暗い人生を繰り返してきたのだろう。

 私は不完全だ。私は独りよがりだ。私は最低だ。だからこそ、だから、こそ――。



 私は猪照真猿のが好きになったんだ。



 溢れだす確信は、――思い出している記憶の産物だった。

 怖くない訳ではない。足がすくんでいる。でも、それでも、私は私に背中を押されている。

 この先にきっと一度耐え切れなかった絶望があるのだろう。

 最後の記憶が全てを覆すのだろう。

 でも私は前に進める。


 私は、最後の本を触った。




 タイトルは『猪照乱花いてらんか』だった。




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