わたしは時たま、小さなころを思いだす。
コーンフラワーブルー・ネイビーブルー・ロイヤルブルー・サファイアブルー・パウダーブルー・ターコイズブルー。藍色・留紺・孔雀青・瑠璃色・群青色・空色――。これが、蒼さ。
眼前に広がる青に魅入られたのは、いつの事だっただろうか。
わたしのおばあちゃんは格好いい人だった。画家というらしく、風景画を好んで描いている人物で、性格は快活な人物だった。おばあちゃんはわたしによく絵を描いている所をみせてくれた。というより、わたしがおばあちゃんの姿を見に行っていたのかな。あれはもう少し前のこと、わたしは彼女が描く壮大な大空をみたとき、目が飛び出てしまうくらいに感涙し、そして惹かれた。その日からわたしはおばあちゃんを尊敬し、そして大好きになった。そういう点でいうと、彼女は立派な、芸術家だった。
「まさる。あんたまた見に来たのかい?」
「うん」
「そうかい」とおばあちゃんはわざわざ手を拭いて、わたしの頭を撫でた。今思うとわたしは、あの感覚がたまらなく好きだった気がする。
「いい子だねぇ。まさるは将来、画家になるのかい?」
「それは、わからない……」とわたしは伏目になって言った。子供ながらに画家というものが好きだったが、しかし、それは『なりたい』という欲ではなかった。わたしは幼いながら、自分がプレイヤーになることは、選ばないだろうなと思っていた。
なぜなら、自分がおばあちゃんを超えられる自信がなかったからだ。
「――……」
覚えている。おばあちゃんの絵ではなく本物の、雲一つない、山奥の古い家からみる大空を。わたしはそれをみるとつい、右手を空に伸ばしてしまう。今にも空が目の前にある気がして、ずっと伸ばしてしまう。そして確か、こんなことを想うのだ。
「思い出せない」
わたしはそのころ、よく見る夢に悩まされていた。
その夢の内容が未だに思い出せない。誰かの影が二つあった気がする。そして夢のことをおもうと、きゅーっと心臓が閉まるような感覚があった。
「…………」わたしは手をひっこめ、空を眺めた。
大空をみればみるほど、手を伸ばしてしまった。どうしてなのか、分からなかった。
それから大人になった。精神的に大人になれたのかはわからないけど、わたしは比較的ふつうに生活した。おばあちゃんの絵が売れなくなってしばらくのことだった。おばあちゃんが入院している病院へいくと、桜が見える病室で、おばあちゃんは虚ろな瞳をしていた。
わたしが部屋のドアを叩き、中へ入る。するとおばあちゃんはすっと瞳に芯が入り、あの頃のおばあちゃんが蘇った。わたしはその光景が不思議で、そして悲しかった。その日は先生から呼ばれていたので、おばあちゃんと小一時間ほど最近について話してから、先生に会いに行った。
「――――」
おばあちゃんはもう、緩やかに死ぬらしいことを聞かされた。
わたしはそうか。と思い、右手を胸にかざした。あの青空に手を伸ばした自分が、映像として脳裏に浮かんだ。
わたしの両親は物心つく前に事故で死んだ。それから父方の親族へ引き取られ、あのおばあちゃんに育てられた。わたしはその頃になると、ふんわりと『あの夢』がどんなものであるか解明が進んでいた。それは解明途中だけど、恐らく、いずれ気が付いたことだったんだとおもう。
「…………」
「ばあちゃん」
「あぁ、真猿かい。おかえり」
わたしは病室にはいった。余命について先生に聞かされていたから、わたしはいつにも増して複雑な心境だった。部屋に入り、赤いクッションがついた丸椅子に腰かける。
「先生はなんて?」
「よくなるってさ」
「へえ」おばあちゃんはちょっと退いて顔を傾け、上目遣いをした。そして「いつまでだって?」と訊いてきた。
「……相も変わらず、勘が良いね」
「舐めてもらっちゃ、困るわよ」
わたしが俯いていうと、おばあちゃんは特段、悲しまずそう言った。
「いいかい、歳をとるとね。死神がみえるようになるんだ」
そう得意げにいう、おばあちゃん。
「そうなんだ。どんな見た目なの?」
「見た目かい。そうだね。優しそうな老人だよ。おじいちゃんに似ている気もするね。でもどちらかというと、もうちょっと顔がやさぐれていたから、違うね」
わたしはその言葉で、会った事はないけど、写真でみたことあるおじいちゃんを思い浮かべた。
「怖くない死神だね」と素直に言った。
「ああ。穏やかな死神だ」とおばあちゃんは微笑んだ。
「――……」
わたしはそこで何を言っていいか分からず、黙った。するとおばあちゃんの芯の通った瞳がこちらに向いて、
「最近、趣味で小説を読んでいるんだ」
「え?」
わたしは驚き、病床の荷物置き場をみると、別に本は置いてなかった。
「違うさ。インターネットに投稿されている小説だよ」
「インターネット? へえ、そういえばあったね」はにかんで笑い「面白いの?」と訊くと、おばあちゃんは目を薄めて、
「たまにはね。おばあちゃんの感性に合わないものが大半だよ。でも、たまにいいものもあるんだ」
「いいもの?」
「ああ。たまにね、あまり評価が入っていないけど名作があるんだよ。それは短編なんだけど、なんだろうね、あの感じは」おばあちゃんは言葉を捻り出すように首を傾げて、「ああそうだ」と閃く。
「たまにあるんだ。きっとこの小説は、自分のために書いているんだな。って奴が」
「自分のため?」
わたしは気になってそう訊くと、おばあちゃんは頷いた。
「インターネット小説は色んな作品がある。イセカイだとか、悪役レイジョウ、ザマア、なんだか色々あるけど、そういうのはきっと、ウケがいいんだろう。でもねぇ、たまにウケを狙わずに、感情を乗せて書いてある短編があるんだ」
おばあちゃんは言いながら、外の桜の木をみつめた。
「私を見てくれ。そんな激情が籠った作品があるもんだ。そんな作品はきっと誰かにとってはつまらないものだろう。でもね、歳食った老人には染みる物があるんだよ、たまには」
おばあちゃんはやけに「たまには」を強調していうので、本当にたまになんだろうなとわたしは思った。
「どういうものが染みたの?」
わたしは興味で訊いた。するとおばあちゃんは「そうだねぇ」と言い。
「――天国に行くとき、人生の感想を訊かれる。というのは面白かった」
「……ほう、詳しく」わたしがそういうと、おばあちゃんは口を開いた。
「あなたにとって好きだった瞬間。あなたにとって大事な時間。大事なひと、嫌いなひと、助けてくれたひと……そうやって人生の感想を訊かれると僕は思う。僕は人生を壮大な映画だと思っているの。そしてその人生にはプレイヤー兼脚本家がいて、その人の盛大なクランクアップは、結婚式よりも祝われて迎えられると思っている。あなたの、プレイヤー兼脚本家のあなたにとっての、人生の『感想』。きっとそれを聞きたくて神様は人の世界を作ったんだと思う。誰かの物語をずっと楽しみに、神様は僕達を作ったんだと思う。――はは、流石に都合がよすぎかな?」おばあちゃんは下手に笑いながら締めくくった。
「……面白い考えだね。そんなものがネット小説にあったんだ」
わたしがそう言うと、おばあちゃんは頷いた。
「いい価値観だと思ったわ。なんだかね、世の中名作と言われる作品はそりゃ面白いんでしょうけど、やっぱり、自分が感じる負の感情を作品にできる人の方が、好きなのかもね」
そういうおばあちゃんの横顔をみて、わたしはふと、彼女が画家であるのを思い出した。表現者というのは確かに色んな種類いると思う。でもそれが日の目をあび、全ての作品が傑作と呼ばれるのかと言われると、確かにそうではない。わたしはおばあちゃんの作品が好きだが、世間は、おばあちゃんの作品に飽きてしまったのを、わたしは知っていたからだ。わたしはそう思った。そして、彼女はきっと、
――独りよがりの作品が好きなんだと思った。
「きっと、おばあちゃんみたいな人がいれば、その人は救われるんだろうね」
「救いたいと思うのはちょっと傲慢だけどね。でも、『あなたはそれでいいんだよ』と言えるような人間性でありたいの」
わたしは深くうなずいた。
おばあちゃんの葬式をきっかけに、胸にある気持ちが溢れて来た。
『あの夢』『空を眺めて手を伸ばしたくなる』。その理由が大いに理解できた。わたしは葬式が終わると、無意識に手を空に伸ばし、そして強く願ったのだ。
「……ひとりにしないでよ」
わたしはずっと独りぼっちだった。両親代わりのおばあちゃんがいるとしても、両親のことは好きだった。ずっと忘れられなかったんだと思う。だから夢に出た。だから空に手を伸ばした。【会いたい】。わたしが言いたかったのは、その四文字だったのだ。
そしてわたしは思った。――自分の感情と空に向けた願いを作品として描くことで、自分に何を問いかけられるのかを確かめたいと。
そう、作家になろうと思ったのだ。
……これから先はまた別のお話になるかもしれない。だから、手短に話します。
わたしは六年後に結婚しました。相手は小説書きの女性です。彼女はおばあちゃんがいうような自分の為の小説を書く人間で、わたしはそこにも惹かれたが、それよりも、彼女の性格が好きになった。丁寧で、親切で、強か。彼女と過ごせば過ごすほど休まり、そして考えさせられました。結婚なんてしなくても、ずっと一緒にいただろうなと思うくらい、彼女とわたしは、相性がよかったと思います。
彼女は【美沙義里奈】と言います。
「――……」
わたしは今、あなたに問う
あなたのそれは、誰に貰ったものなのか