私は部屋に戻ると、すぐボタンを押した。
『おはようございます、リナ。今日は遅かったですね。昨夜は夜更かしでしたか?』
「……ええ、ちょっと思い悩んじゃって」
震えた声でそういうと、間があってからマーティは言う。
『何か困りごとでもありましたか? もしよろしければ、このワタシにお話してください』
……反応からみるに、マーティは自らが起動していないと、私の事を観察できないようだ。もしあの部屋の存在をマーティが隠しているとすれば、私が起動ボタンを押さずその部屋に入ったことに気が付いているのか、気になっていた。どうやら勘繰りすぎたらしい。
思っていたのと違ったので、私はますますわからなくなった。
「マーティ」
『はい』
「私は誰なの?」
『……リナ、女性、身長は百六十七、性格は――』
「嘘をつかないで」
『嘘? そんな高等な言語プログラムはありませんよ』
「高等? 嘘って、そんなに難しいの? 真実を話すことが、そんなに難しいことなの?」
『――……解説しましょう。嘘とは単純に虚偽の報告をすることではありません。悪意をもち、意図的に虚偽の報告をすることが嘘なのです。ですが、ワタシには悪意がありません。故に嘘を再現することはできないのです』
「…………なら、あなたは何も知らないんだね」
『何も? そうとは限りません。相談してくださればこちらもネットワークで検索し』
「美沙義里奈」
『……』
「…………そう、」
私が彼の言葉を遮ると、マーティは押し黙った。それを見て私はカッなった。
「知ってるのね。私が何者だったか、知っていたのね。あなたは何? ここはどこ? 私はだれ? あれは何? 私は何なの? 私は、わたしはさ、不幸を嘆いていることすら許されないの? どうして不幸が他人の不幸を呼ぶの?」
二人の本では、私は、酷い人間だった。彼女の気持ちを拒絶し、大きい声で彼を酷い言葉を浴びせた。そんな自分がとても許せない。情けない。ダサイ。私は酷い人間だ。最悪な人間だ。誰かを傷つけた経験があったのなら、思い出さない方がよかった。
――じわじわと記憶が戻ってきているの。
私は確かに酷い人生を送ってた。他人に気を遣うことができないくらい酷い体験をしていた。だから良い性格じゃなかった。それが、それが……加害者になっていた。
……被害者だったはず。私は被害者だった。だから逃げた。逃げて、逃げて、その先に、精神の休息を求めたはずなのに! どうして私は加害者になっている……⁉
「ねえ、マーティ、こたえてよ」
『…………』
その言葉を呟くと共に、頬を熱い液体がつぅっと滑った。それを皮切りに幾重にも目から溢れた液体は融合し、大粒の雫となって宙に飛び散った。無様な泣き声が、部屋の静寂に溶けた。その涙姿はひどいものだった。涙と鼻水で顔を覆われ、抑えがたい嗚咽がいつの間にか喉を焦がすくらい鳴っていた。
その絶叫が青木花尾を糾弾したときと重なり、更に自己嫌悪が加速した。
「――――」
……私はきっと小心者だったんだ。
『――里奈さん。どうやら、あの部屋へ行ったんですね』
「っ?」
私は一瞬、聞き逃したかと思った。泣き叫んでいたから、マーティの言葉を逃したのかもしれないと思った。でも違う。何度脳内で思い返しても、確かにマーティは――。
「どういうこと?」
恐る恐るそういうと、
『時が来たようですね』
とやけに意味深にマーティは言った。そして唐突に改まったように――、
『里奈さん。ワタシはあなたの味方です。そして、これからあなたは次第に我を取り戻していくでしょう。記憶の蓋は開きつつあります。これは素晴らしいことです』
「…………すばらしい、って?」
私は力んで震えながら、小さく言う。
『ええ。あなたは選ばなければなりません。――あなたは過去に向き合い、ここから出たいですか? それとも、過去を遠ざけこの部屋に残りますか?』
「――――」
私はマーティの言葉に茫然とし、力が抜けて、天井を眺めた。
彼は、選択肢は二つあるといった。二者択一だ。私は狼狽しながら恐る恐る言う。目の前の全てを知っていそうな彼に向けて、
「何か、答えてよ。マーティ。私は何者なのよ? ここは、どこなのよ」
『その答えを求めるのなら、あなたが勝ち取るべきだ』
「……はっ?」
『あなたが自分でここから出たいと思うのなら出るべきだ。だが、あなたがここから出たくないと思うのなら出ないべきだ。いいですか、ワタシはマーティだ。ワタシはあなたの味方。とある理由で全てを、口頭でお伝えすることはできません。でも、ワタシは生活補助ロボットなんです。あなたに与えることはできなくとも、あなたを支えることはできる』
「……自分で選べというの?」
『はい。――どうしてあなたはあの本を読んだのですか? 何故あなたはあの部屋へ行ったのですか。怖かったのなら行かなければいい。それだけのことだったはず』
「それは、好奇心で……」
『好奇心も立派な心だ。それに従うか、従わないかを選ぶことができるのが、人間なのでしょう』
ついに私は、何も言えなくなった。もっとなにか言ってやろうとしていたはずだが、フッと喉元でつっかえてもう出て来なくなった。彼は言う、『自分で選べ』と。私は彼がどういう存在なのか、ここがどこなのか、そんな疑問があった。すると、彼は『真実を言えない』という。
そして、彼は私の味方だと言う。正直信じたいと思っている自分と、信じられないという自分が混在していた。信じたいというのは、この空間で生活していた私。信じられないのは、あの本で目覚めつつある里奈だ
里奈がどうしたいか分からない。……きっと、ただひたすらに怖いのだと思う。
彼に裏切られることが――、彼に破滅されることが――、自分が犯す罪が――、外への失望が――、突き放す淋しさが――、触れ合わない時間が――、他人が――、自分が――、怖い。
里奈は愛されなかったんだ。誰も「それでいい」と伝えてくれなかった。彼女は被害者だ。そして、加害者だ。
里奈には力がない。それは彼女自身の弱さであり、それは彼女の人生で得てしまった虚しい悲劇の集合体だ。彼女は、可哀想なひとなんだ。だから、彼女ならきっと、この部屋から出ないことを選ぶのだろう。
じゃあ、私はどうだ? リナとしての私はどうなのだろう。里奈の記憶が蘇りつつある。焦りの記憶が、悍ましい過去が、ありありと目の裏に、まるでそこにはなから居たように色を帯びるのだ。正直とても嫌だった。私はリナであり里奈だ。彼女の気持ちは痛いほどわかる。
「…………」
だが、私はやっぱり、思う。
「…………」
マーティに生かされた私は、思うのだ。
「…………私は」
例え絶望があっても、深い悲しみがあっても、人は生きることをやめてはいけない。
だから――。
「外に出るよ」
だから私は、ハッピーエンドを求める。
『――……わかりました』
あの玄関に手をかけたが、何故か外から鍵がかかっていた。内側から鍵を開けられる場所はなく、私はそれを理解する。この扉に近づいたことがなかったから知らなかった。だが、恐らく最初からこの玄関で外に出られなかったのだと思う。マーティは言っていた。『過去と向き合え』と。
「……本を全て読まなきゃ、出られないってことね」
私は意を決して、あの木製の扉に手をかけた。マーティは電源がオフなのでいない。今は私一人だけだ。
「…………」
私はドアを出現させるためにマーティをオフにしたとき、彼が言った台詞を思いだした。そして扉を開いた。クラシックが流れる暖かい部屋で、本棚に視界を移すと本は二冊しかなかった。
そのうちの一冊を取った。
『
『ワタシはあなたを救いますよ。泣き虫だったあなたを』
彼は最後にまるで人間みたいに言って、オフになった。