僕は失ってばかりの人生で、父親の暴力で母は逃げ、父は僕を親戚に捨てた。親戚での扱いも酷いものだった。毎晩毎晩叩かれ、いじられたりする生活で、僕は不服に感じながらも生きる為に追い出されるわけにはいかなかったので、その家で生活した。中学まではいかせてくれたが、高校へはいけなかった。ある日、家計の為に働きにでてこいと言われて僕は働いた。画家の夢があった気がするけど、今じゃ、どうして画家になりたかったのかすら覚えていない。
「よおあんちゃん、仕事は慣れて来たか?」
同じ工場で働いていた大人たちは優しい人たちだった。僕はその問いに肯く。
「君のおかげで汗くさい現場にちょっと活気がでたよ~」
「ありがとうねぇ」
「……いえいえ! 松井さんの教え方も上手なので、やりやすいです!」
僕はそれまでの人生どうにも、誰からも必要とされていないのを肌に感じることばかりだったので、その人たちのそんな言葉は、僕にとって特別なものとなった。何もロマンティックだとかじゃないけど、僕にとってこの工場は気持ち的に、本物の家みたいなものだった。
そんな時だった。
彼女が工場へ働きに来たのは。
彼女は里奈さんといった。
聞くところによると僕より少し下だが、歳はさほど変わらないらしい。そして彼女の特徴はなにより、――とても暗い表情をしていることだった。
僕は彼女も、僕のような辛い経験があったのではないかと勘繰っている。実際聞いた訳ではないが、でも、僕もそういう経験があるせいかどうも彼女が気になる。どうして浮かない顔をしているのかがとても気になった。でも彼女には壁があった。僕は無闇に近づけなかったし、その壁の効力か、近づけないとも思っていた。だが仕事の都合で話しかける時があった。僕はちょっと早くこの工場で務めていたし、歳も近いからという大人の粋な計らいで、僕は彼女の世話係となった。
「こんにちは。僕は花尾っていいます」
「…………よろしく」
彼女と会話をした。物覚えはあまりいい方ではなかった。でもその度に僕は教えた。できるだけ分かりやすく教えた。
僕は彼女の事をとても好意的に思っていた。もちろん恋愛ではない。ただの他者への評価として、彼女の事が気に行ったのだ。彼女はやけに心を閉ざしているけど、別に関わられるのが嫌そうな訳ではなかった。きっと親切にされたことが、あまりないんだと思った。
僕は勇気を出した。
もともと人に話しかけたりするのが得意な方ではなかったけど、でも彼女に話かけるのは、楽しかった。
でも日に日に、彼女は顔色に生気がなくなっていた。
僕はどうしてだろうと悩ませていると、更衣室で一緒に服を脱いでいる親切な人たちが、こんな話をしていた。
「――あのこ、イジメられてたらしいじゃないの」
「おお松井さん、そうなん? どこで聞いたんだい?」
「いやな、隣のじじいの娘が学校の教師だったらしいんだがね、そのひともう教師やめたらしんだが、どおやら里奈って少女は、ひでえイジメにあってたらしいよ」
「へえ、脱がされたりかなぁ」
「さてね~。ほい花尾くんや、なんか聞いてない? ほらイジメの経験とさぁ」
僕は愕然とした。「そんなこと知りませんよ」と語気を強めていった。そして僕は「そんなことより」と続けて、
「無神経すぎませんか、……流石に」
「え?」
「そかな?」
「だって、女性ですよ。そういうことあまり触れない方がいいんじゃ」
「はは、そうでもないってそうでもない」
まるでその人たちは何てことないように片手をふって、気持ち悪い笑みを浮かべた。気持ち悪い笑みというのは語弊が生まれそうだからしっかり訂正するけど、彼らの笑顔は、いつも通りの優しいものだった。その笑顔が、かえって彼らの無神経さを際立たせていた。
彼らにどれだけ事の重大性を説明しても「大丈夫大丈夫」と聞く耳をもたなかった。最初は彼らの言葉に違和感を覚えていただけだったが、やがてその無神経さが僕にとって、耐えられないものになっていった。
一度彼らに僕は助けられた。でも僕は、心底、その人たちを軽蔑した。
そこからはもう、絶望だった。
その日、家への帰り道にあったブラウン管テレビを店頭に並べる店がある道を通っているとき、カチッとテレビにノイズが走ったのを見届けてから、僕の絶望はまるでシューベルトの「魔王」のように表層に顔をだした。
彼女の顔は更に浮かなくなっていった。僕の耳にジジイたちの無遠慮な噂話が入ってきた。彼女はついに僕に舌打ちをした。ジジイたちは彼女が性的ないたずらをされたのか聞けたかと話しかけてきた。彼女は一人でできると言いはじめついに僕が拒絶された。ジジイたちは何のこともないように競馬の話をしていた。
窓の外に何かいる気がした。魔王? わからない。でもとにかく、激しい恐怖とどうにもできない無力感が僕の生気を奪っていった。どれだけ訴えても、ジジイたちは猥談を決してやめなかった。そして最後に窓の外の魔王はこんなことを言った。
『こしぬけ』
里奈さんの激しい絶叫をきいた。
工場の外で、左手首を右手で握りながら力いっぱい、体で叫んだ。まるで、必死に父親を呼んでいるような声だった。それをみて、僕は気が付いた。
僕が魔王として彼女を苦しめているようだ。
激しい焦燥と、たちこめた霧と、湿っぽい空気と、夕陽のせいで大きい影と、ノイズ走るブラウン管テレビと、けたけた笑うジジイたちの顔が過って。僕はついに何も言えなくなった。
ぼくはたぶん、なにもできないのだ。
恐怖がある。拒絶される恐怖があった。だから優しくした。だから親切にした。
親切に、一緒にいようよ、こっちは安全だよと、悪魔たちの工場へと、
「――――ッ!」
その言葉を聞いて確信した。
「…………」
絶望、僕の人生はそういうものだった。
僕が持て余す「何者にもなれない」という絶望は
度々首元に手のひらを持っていく
僕はもう、何もしたくない
*
そのタイトルの本を読み終えたとき、不思議な読後感に襲われて、ふと寂しくなった。
私は彼のように激しい無力感に苛まれ、動けなくなる経験があったわけではない。だが、彼のような目にあった時、私はきっと同じことをしてしまうという、納得があった。
家族に捨てられ、いじめられた。だがその理不尽の中でも手に入れることができた本当に実家。……その居場所が、醜悪だったとき、私は何が出来るのだろうか。それに、
――きっとこの本に登場する里奈は、私の記憶を失う前の姿なのだろう。
「――……」
私は絨毯にへたり込んだ。部屋の中のレコードプレイヤーから、魔王が、流れていた。
過去を思い出せない。それとも、この本の里奈という人物は実話なのだろうか? 誰かの想像で描かれた存在じゃないのだろうか。この里奈という人物を中心に描かれる多角的な小説ばかりが並んでいるけど、この物語自体、誰かの妄想ということはないのだろうか?
……手が震える。足が、唇が、ひどく震えている。動けない。足がすくんで、呼吸が――浅くなる。全身が冷たく固まったようだ。これはあのお腹の気持ち悪さとは違う。
これは、
不安?
恐怖?
それとも……焦燥?
何を、いまさら。
本を読むことを選んだのは私だ。私、私なのに……好奇心。そうだ、好奇心だ。好奇心は身を亡ぼすと言う奴だ。……私は怖い。こんなことが本当にあったのかもしれないと思うのが怖い。もしあったというのなら、私は私が――
「……花尾というひとを、傷つけた」
わかった。これは、罪悪感だ。
過去の自分が、なぜあのような行動をとったのか。思い出せば思い出すほど、その行為が他者を傷つけていたという事実に気づき、胸が冷たく、じわじわと痛むのを感じた。
私は思い出した。
……自分の中に潜んでいた冷たい影が、今、私の身体を蝕んでいるのだろうか。口を開けても声が出ない。そんな感覚。彼の本に感情移入してしまったがあまりに、私は激しい後悔と逃げられぬ苦しみが、目の前にあるということを思い知った。――そして思い出した。
自分のタイトルの小説に、こんな描写があったことを。
『若い私をそう言う目でみて、私がいない場所でそういう話をしていた。吐き気がしたのでなけなしに一喝いれ、工場をやめた』
……一喝をいれ。
恐らく私は絶叫したあの日に、花尾という男性を酷く拒絶したのだ。
そのとき、私のほうがよっぽど死へ誘う、魔王に思えた。