孤児院で一晩を明かした翌日。
イクセロンの情報通り、船は確かに昼過ぎには港に到着していた。
ただ驚いたのは、港にいた船がガウラ号だったことだ。
つい先日発ったばかりだったというのに、どうして戻って来たのか。
ミレーナの姿は見えないものの、タラップのあたりに付き人の青年の姿は確かにあった。彼がいるということは、やはり主人であるミレーナも同乗していると見て良いのだろう。
乗船手続きのために船のもとへ向かったテオドールの代わりに、カディアンがシェリアの傍に立った。
「シェリア」
「うん。どうしたの?」
「いや、あの……」
その小さな手を握って話しかけたまでは良かったものの、カディアンはそこで言葉を濁した。
甲板上での出来事について、きちんと謝りたかったのだ。
しかし、あのことを思い出せたいわけでもなくて、どうしたものかと眉が寄ってしまう。
「……守れなくて、ごめんな」
やがて唇から漏れたのは、そんな言葉だ。
船の上でも、孤児院の中でも、自分は彼女を守れなかった。誰かに責められたわけではない。それでも、カディアンとしては、やはりそのことが気になっていた。
しかし、シェリアは少し驚いてから、ゆっくりと首を振った。
「ううん……迎えに来てくれて、ありがとう」
シェリアが微笑んでそう言うと、カディアンは驚きに目を見開いた。
あんなに危ない目に遭わせてしまったのに。
彼女はそれを責めるどころか、礼を言ってきたのだ。
カディアンの思考が軽く混乱する。
「それに……みんなに、お話もしてくれたでしょう? 私ね、すごく嬉しかったの」
ゆったりと言葉を口にしたシェリアは、本当に嬉しそうに微笑を深めていく。
その笑みを見て、ああ、そうだ──と、カディアンは思い出した。
この子はこういう子だった。
だから、好きになったのだ。
だからこそ、守りたくなったのだ。
大切にしたくて、辛い思いをさせたくなかった。
手続きを済ませたらしいテオドールが、彼女を呼んで手を上げる。
カディアンは、シェリアの手を離したくなかった。しかし、それでは彼女を困らせてしまう。彼女は彼と、テオドールと行くのだと決めたのだから。
ゆっくりとカディアンが手を離すと、シェリアは静かに歩き出した。
その後を、カディアンも追う。
連れて帰りたかった。
連れ帰って、今までのように過ごしたかった。
そんな気持ちを、今は隠して、出そうになった言葉を喉の奥へと押し込む。
タラップのもとに辿り着くと、シェリアは「またね、カディ」と手を振った。
それから、カディアンの後ろへと視線を向ける。
カディアンが振り返ると、背後にはイクセロンが立っていた。
背の高いテオドールとイクセロンが言葉を交わす間、カディアンはじっと彼女を見つめる事しかできない。
声を掛けたかった。
行かないで。
危ないから。
ここに残って。
いっしょにいよう。
だが、そのどれも違う気がした。確かにずっとそう思っていたのに、本心ではないような気がしてしまう。
カディアンは少し迷った。
迷いに迷って、テオドールとシェリアがタラップを上がり始めても、まだ悩んでいた。
「──テオドール!」
やがて、とうとう彼女が船に上がってしまった時、カディアンは声を張り上げた。
彼女ではなく、テオドールの名前を口にする。
「シェリアを、シェリアを頼んだからな!」
無事に戻って来てほしい。
彼女だけではなく、テオドールも、だ。
そうでなければ、きっとシェリアが傷付いてしまう。
カディアンの大声に驚いたシェリアが、隣のテオドールを見上げる。
テオドールもまた、意外がっている様子でいたものの、ほどなくして腕を大きく持ち上げた。
やがて、船は波と共に港から離れ始めた。
少しずつ離れていく船を見送るカディアンは、まだ少し物言いたげな様子でいる。
手を振るシェリアの姿は、まだ見えていた。
僕も乗せてくれと言いたかった。
でも、言えないのだ。カディアンは、自分がテオドールがそうしてきたように彼女を守れないと知ってしまった。
「行くなとも、戻って来いとも言わないんだな」
船に向かって──彼女に向けて振り続けていたカディアンの手が止まる頃、イクセロンが小さく笑った。
銀の女神を飾ったガウラ号が、少しずつ少しずつ離れていく。
カディアンは少しばかり迷ってから、肩を竦めて腕を下ろした。
「……言えないよ、今のままじゃ」
行って欲しくない。だが、行くなと止められない。
戻って来てほしい。でも、戻れとは言えなかった。
止めてくれなかったのはイクセロンも同じだ。
彼女が孤児院を出ることに、少しくらい反対してくれても良かったのに、と。
カディアンは少し責めたい気持ちになった。
しかし、彼女が魔女について知りたがっていることだって分かっている。
それが危ないことだと理解した上で、彼女はテオドールと共に行きたがっているのだ。
「……だから、迎えに行く。どこにいても、見つけ出すよ」
「ははっ、そいつはまた」
頼もしい限りだな──と。
イクセロンは、カディアンの背を叩いた。