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女神の導きか、魔女の囁きか 10


 シェリアの声が響き渡ったその瞬間、テオドールを包み込んでいた炎柱の壁が拉げるように揺らいだ。瞬間的に勢いが弱まり再び燃え上がり、そしてまた弱くなる。あれほど喉が焼けるようだった空気の熱さえも薄まった。

 自分の身体を見下ろしたテオドールは、焼け焦げた痕跡がないことに目を瞠った。

 確かに肌が熱されたと、焼かれたと、そう感じたにもかかわらず、だ。


 再び炎が勢いを取り戻し始めた時、テオドールはハッと顔を上げ、炎に包まれた瞬間に手放してしまった剣を振り返った。


「──救えないわ」


 ぞっとするほど冷たい声が、魔女の唇からこぼれ落ちる。

 シェリアが、自分の傍らにいる存在を認識したのはその時だった。

 触れる小さな手。それなのに、その手指は獰猛な獣のように食い込んでいる。

 視線を持ち上げた先──自分を見つめる金の瞳が見えて、シェリアの全身が強張った。


「お前には、誰も救えないのよ」

「──……っ」

「救えなかったでしょう? よ」


 まるで鏡を見つめているかのように思えるほど、はっきりとよく似ている面立ち。蜂蜜のような金色。太陽のような黄金。あるいは──その顔が微笑みを浮かべると、背筋がぞっと粟立った。


 あの時──いつの話をしているのだろう。

 何の話をしているのだろう。

 知りたくて、しかし怖くて、問うことはおろか、その手を振り払うことさえもできない。


「っ、……あなたは、……あなたは、誰なの……」


 辛うじて絞り出した声は、そんな言葉を紡ぎ落した。

 金の髪。金の瞳。白い肌。

 自分とよく似た顔によく似た声。だというのに、彼女が浮かべる表情はひどく冷たい。自分とは違う存在が、自分と同じ顔をしている。


 彼女は──魔女は、金の双眸を細くして微笑んだ。


「忘れてしまったのね。ひどい子だわ」


 魔女の言葉が落ちるなり、炎が音を立てて勢いを増した。

 それを引き裂いた剣先が空気ごと火の粉を散らした様子が視界の端に入る。

 銀の眼差しがそちらに向きかけた時、魔女はそれを拒むようにシェリアの顎を掴んだ。


「──どうするの? お前に何ができるの? 苦しむ男の顔が見たいのかしら? 相変わらず悪趣味ね」

「……ち、違っ、いや、はなして……」


 顎を掴む手は小さくて、その手首はとても細い。

 だが、シェリアがいくら腕を引き離そうとしても、魔女の手はビクともしなかった。両手で掴んだ手首の冷たさに、ぞくりと肌が震える。


 シェリアの顎を引き寄せて顔を近づけた魔女は、まるで蜜のように甘く微笑んだ。銀の瞳が怯える様子を愉しむように、その身体が竦む様を味わうように。


「ああ、そう。見ればいいわ。絶望と恐怖に染まった表情を。きっと、どんな夢を見るよりも素敵だもの」


 ゆったりと柔らかな声で告げた魔女が、空いた左手を持ち上げる。

 その瞬間、自分達を中心として円を描く炎が強まった。


「いやっ、嫌ッ! やめて、お願い……テオッ!」 


 彼の姿が見えない。声も聞こえない。

 どうなっているのか分からなくて、それが不安で怖くて、シェリアはとにかく声を上げた。


「やめなさいよ、みっともないわ」


 顎から離れた手によって頬を強く打ち据えられたシェリアは、転がるように地面に落ちた。魔女はまだ、空中でしどけなく脚を投げ出して座り込んでいる。


 細腰に纏う衣が何もない虚空に広がっていて、そこに見えない床でもあるかのようだ。


 地面に叩きつけられたシェリアが痛みにうずくまったのは数秒だった。今にも涙がこぼれそうな瞳を開いて、ぐっと下唇を噛み締めて、さっきまで彼がいた方へと駆け出す。


「──テオ……テオッ! いや、返事をして、テオ……ッ!」


 激しい音を立てて燃え盛る炎が熱くて身が竦む。

 それでもシェリアは、必死になって彼の姿を探した。


 人ひとり程度なら容易く飲み込めるほどの大きな火柱の間を抜けていくが、辿り着いたのは炎の壁だった。


「……テオ!」


 直接触れずとも炎に熱された空気が肌に痛みを生じさせる中、シェリアは叫んだ。喉奥が、まるで焼けるように痛い。両手を握り締めて必死に彼を呼ぶと、遠くから声が届いた──気がした。


「……分からない子ね。気味が悪いくらい。ああ、愚かだわ」


 炎の中心にいる魔女は、つまらないものを眺めるような眼差しを向けて首を傾げた。周囲を満たす炎は、ただの水や土では溶け消えることなどない。永遠に続くようにすら感じられるそれは、まるで地獄の業火そのものだ。


 届かない声を何度も何度も張り上げるシェリアを見つめて、魔女は退屈そうに肩を揺らした。熱も痛みも感じているはずの薄い身体が、揺らぐ炎の向こうを探ろうとする様子は滑稽でしかない。

 何もできはしないのに。

 炎を消すどころか、振り払うことすらできないというのに。そのうち、炎に飲まれて燃えるだけだ。


「……テオ!」


 シェリアが何度目かも分からない呼び声を発した時、炎の壁に亀裂が走った。まっすぐに、上から下へ。裂け目から漏れ出たのは、淡い銀の色味を纏った強い光だった。縦に裂けたその隙間に差し入れられた剣先が、真横に薙ぎ払われて宙を裂く。周囲に散った火の粉は、再び炎になることはなかった。


「──シェリア!」


 自分の方へと駆け寄って来た彼女を見つけたテオドールは、思わず声を荒げた。


「何をしているんだ、逃げろっ! このままでは、お前まで……ッ!」


 お前まで。

 お前まで失いたくないんだ。


 喉まで出かかったその言葉を飲み込んだのは、炎の向こうにいる彼女の背後──そこに、魔女を見つけたからだ。

 炎はいくら払ってもキリがない。終わりがなかった。

 これはただの炎ではない。ならば何なのか。やはり魔法のはずだ。

 だとすれば、断ち切るべきは炎ではなく、術者の方──。


「──ッ!」


 彼女が何か言っているのに、テオドールにはその声が聞き取れなかった。

 シェリアもまた、彼が何か言っているのだと分かっても声は聞こえない。


 シェリアの背後に火柱が立ち上がった瞬間、テオドールは咄嗟に腕を伸ばしていた。皮膚が焼けて肉が切れる感触と、指の先から爪ごと皮膚の表面が剥がされるような激しい痛み。腕の芯が痺れて感覚が失われていく中、テオドールの左腕は確かにシェリアを求めた。


 張り付いた服ごと皮膚が乾いて焼かれる感覚がしても、地面に吸い付こうとする足裏を引き剥がして一歩を踏み出す。あらゆる関節が痛みに軋んで悲鳴を上げている。

 知ったことではなかった。眼球の奥が熱くなって痛んでも、瞼を下ろすことはしない。


 地面に降り立って薄らと微笑んだ魔女の表情が網膜に焼き付く。

 次の瞬間、テオドールは右手で握り締めていた剣を魔女の薄い身体に投げつけた。


 まるで矢のようにまっすぐに、まるで吸い寄せられるかのように飛んだ剣が魔女の胸を貫く。剣が鞘に収まるかのように、地面に落下するかのように。至極当然のように。


 魔女はその金の瞳をぱちりと瞬かせて、まるきり理解できない様子で自分の身体を見下ろした。それは幼子が、意味の分からない言葉を聞かされた時のような仕草だ。

 知らないものを見つめるかのような、不可解に困惑するような瞳。


「──……魔女めッ!」


 テオドールが声を上げたその時、金の瞳が大きく見開かれた。

 ずっと浮かべていた微笑が消えて、冷たく美しい顔が能面のように無表情を張り付けている。

 その細い腕がゆったりと持ち上がる。

 血を流さない身体はそのまま、地面から空中へと舞い上がった。


 長いスカートの裾が風もないままに揺れる。


 テオドールと魔女の間に位置していたシェリアは、肩越しに魔女を見た瞬間に何かするつもりなのだと察してぞっとした。


「お願い、もうやめてっ、テオに何もしないで──!」


 魔法も剣も扱えない少女の、絶叫じみた悲鳴が周囲に響き渡った──その声は、先ほどまで届かなかったテオドールのもとに、確かに届いた。ずっと耳を何かで覆われて塞がれていたような感覚が、魔女の声と炎の音以外が聞こえない状態が、急激に薄れていく。


 刹那。周囲を埋め尽くしていた炎が一気に凍てついた。まるで氷の中に閉じ込められてしまったかのようだ。そして、異様な轟音と共に地面がぐらつき、炎を閉じ込めた氷の柱たちが一斉に砕け散る。ひと瞬きの、数秒にも満たない。何が起きたのかなど、テオドールに理解できるはずもなかった。

 踏み込んだ先の地面は浅い川のように水が張られていて、そこにあったはずの炎など、もうどこにもない。砕けた氷が落ちていく音が耳に届いても、煩わしいばかりで理解が追い付かなかった。

 炎が消えたことで、周囲には暗がりが戻って来る。


「ああ……」


 魔女が吐息交じりに声を漏らした。


「興覚めだわ──」


 不快感を露わにした魔女が腕を振るった瞬間、テオドールの指先が届きかけていたシェリアの身体が何かに引っ張られた。

 ぐらりと重心が揺らいで、何が何だか分からないままに視界が回る。

 自分の方へと片腕を伸ばしたテオドールの姿を見て、シェリアは僅かに安心した。


 彼が無事だったから。

 彼に焼けた様子がなかったから。


 そして更に視界が回って、魔女の姿を捉えたのに──その顔を認識できなかった。

 あなたは誰。

 あなたは、あなたは──。




 次の瞬間、シェリアは水の中にいた。

 見上げた先の水面で光が揺らいでいる様子だけが見える。

 立ち上る気泡が離れていくにつれ、息苦しさを覚えた身体から力が抜けた。


「シェリア!」


 虚空を引っ掻いて空振りした腕を引き戻したテオドールは、すぐさま駆け出した。

 水を蹴り散らして彼女のもとへと向かう間、意識にも視界にも魔女のことなどない。とにかく無我夢中だった。腰まで水に浸った状態で駆け寄ったテオドールは沈んでしまったシェリアに腕を伸ばして、その細い身体を引き寄せて抱き上げた。


 一瞬だったか。数秒だったか。数分だったか。それすら分からない。


 水面に引っ張り上げられたシェリアは、すぐに水を吐き出した。呼吸が止まったわけではなかった彼女を抱き上げたまま、テオドールは周囲に視線を巡らせる。


 しかし、そこにはもう魔女の姿はなかった。

 残されたのは、しんと静まり返った泉と、その中に放り出された自分達だけだ。

 あれほど激しく燃え上がっていた炎も、痕跡さえ残ってはいない。

 月明かりだけが差し込んでいる森は、ただ、静寂に満ちている。


 魔女は、──もういない。


「……テオ……?」


 テオドールの意識が一気に引き戻される。

 届いたのはシェリアの声だ。本当に、彼女の声だけだった。

 ずっと聞こえなかった。何か言っているような気はするのに、どうしてだか聞こえなかった声が今は鮮明に聞こえている。


「……シェリア。ああ、……ここに、ここにいる。俺だ、シェリア」


 泉の浅い場所まで引き返したテオドールは、やがて力尽きたように座り込んだ。

 しかし、それでも彼女を離しはしなかった。


「……ここに、ここにいてくれ、シェリア」


 まるで祈るように、願うように、ただただ言葉がこぼれ落ちた。

 テオドールの言葉に、シェリアは銀の瞳を大きく見開いた。彼に抱き締められたまま、顔も上げられない。


 テオドールもまた、自分の顔は見せられなかった。

 どのような顔をしているのか、情けなくて仕方がない。



「……すまない。……本当に、悪かった。頼む、離したくないんだ。……俺と一緒にいてくれ」

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