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女神の導きか、魔女の囁きか 9


 空中に座り込んでいる魔女の髪が、炎の中でゆらめいた。見事なまでの金の髪が炎の橙色を反射している。


 テオドールは息を飲んだ。

 炎の熱さなど今は感じていられなかった。

 微笑を浮かべている魔女が、その腕にシェリアを抱いていたからだ。


「──シェリア……っ」


 喉奥から絞り出すように名前を呼んだものの、シェリアは顔を上げはしない。意識のない彼女を抱いた魔女の、金の双眸がテオドールを捉えた。


「本当に追いかけて来るなんて、愚かなヒトね」


 ざわざわと木々を騒がせる風が入り込むと、火の粉が方々に飛び散った。

 魔女は熱など感じていないかのようだ。魔女とシェリアの周囲に炎は迫らない。


 彼女は、無事なのか。何がどうなっているのか。

 テオドールは焦りを表に出さないよう努めながら、汗ばんだ手に力を込めて剣を握り締めた。


 そんなテオドールの気持ちなど知りもしない魔女は、いっそ美しいほどの淡い微笑を浮かべている。


「ああ、素敵。とても楽しいわ。あなたが一番正解に近いのね。けれど、とても遠回りだわ」


 ゆったりとした仕草で、おっとりとした調子で、魔女の細い指先がシェリアの腕を辿る。力の抜けた腕を持ち上げさせ、ゆっくりとその指先まで小さな手が辿った。

 それはまるで、糸の切れた人形を扱うかのようだ。


「私ね、退屈していたの」


 魔女が言葉を紡ぎ落とす。

 ゆったりと、まるで歌うように。

 おだやかに、まるで囁くように。


「それだって、あなた達のせいなのよ」


 魔女は言う。

 ただ静かに、言葉だけを音としてなぞるように。


「退屈は心を殺してしまうでしょう? あなた達が私を殺したのよ」


 魔女の言葉を、テオドールは理解できなかった。

 まるきり自分を見ていない。

 まるで、この状況など気にもしていない。

 そんな魔女が見つめているのは、テオドールではなく──シェリアだった。


 目を閉じたまま意識のない彼女の、薄らと開かれた唇を魔女の指がなぞる。


「ああ……なんて可哀想なのかしら。失ったモノのために自分を捧げて」


 魔女の言葉は、いったい誰に向けられたものなのか。テオドールは眉を顰めながら、炎の渦へと一歩ばかり踏み込んだ。土が熱を持っているのか、奇妙な熱さが靴裏から伝わってくる。


「なんて愚かなのかしら。何をしたところで戻らないのに」


 魔女を中心に円を描いて燃え盛る炎は、開けたこの場を埋め尽くしている。轟々と禍々しい音を立てながらうねって勢いを増す炎に、テオドールは成す術もない。

 チリチリと鼻先を、そして頬を焦がされる感触ばかりが強くなる。吸い込む空気さえも熱を孕んでいた。


「奪われたから恨むのかしら。奪ったのは、あなたの方なのに?」


 うっとりと目を細めながらシェリアの髪を撫でる魔女は、その銀色に見入っているようだ。

 テオドールは舌打ちを漏らすなり、光を纏う剣で傍らに迫った炎を引き裂いた。光に吸い込まれるように炎が消えて、僅かばかりに空間ができる。しかし、それも数秒もしないうちに塞がってしまった。


「──……何を言っている。奪ったのは、お前だ」


 喉から低い声を漏らしたテオドールは更に一歩、足を踏み出した。全身にまとわりつく熱が痛みに変化していく中、それでも彼は更に歩みを進める。邪魔な炎をいくら剣先で振り払っても、それらは再び戻ってしまう。


 まるで先ほどの狼のようだ。

 払うことはできても払い切ることはできない。

 わざと希望を与えておきながら、幾度でも絶望させる手口のようだと思えた。


「……俺はお前を許さない」


 人の命を弄び、まるで道具のように扱い、それだけに留まらず児戯めかして楽しんで笑う。そんな魔女が許せなかった。例え、どのような理由があったとしても、踏みにじられた命に罪があろうとなかろうと、関係などない。


「シェリアを返せ!」


 怒鳴り声を上げたテオドールは周囲の炎を荒々しく剣で振り払い、その刃が纏う輝きごと剣先を魔女に向けた。

 もう、何も奪わせない。奪われてなるものか。


「──まあ、野蛮ね」


 歯噛みするテオドールを前にして、魔女は怯むどころか小首を傾げて肩を揺らした。


 仕方がない悪戯でも眺めているように。

 些細な失敗を見つめているように。

 僅かな歪みに気が付いたかのように。


 この場にはあまりにもそぐわないその表情は、テオドールの怒りを刺激するには十分だった。

 腹の底に溜まっていたあらゆる感情が一気に燃え上がる。

 殺さなければならない。生かしてはいけないのと。心底からそう感じて魔女を睨みつけた。


 燃え盛る炎を剣で薙ぎ払い、その度に舞い戻る灼熱の炎に皮膚が焦がされる。それでも、テオドールの瞳は魔女を睨み据えたまま、次第に距離を詰めた。

 一息に斬りつけたいところだが、魔女の腕にはシェリアがいる。距離があまりにも近すぎた。何より彼女に意識がない。状況は、まさしく最悪だった。


 ゆったりと、長い金の髪がさらさらと細い肩から流れるように落ちる。

 傾げていた首を戻した魔女は、その花のように色づいた唇を、上向かせたシェリアの額に寄せた。

 テオドールの足が止まる。彼女に何をするつもりだと叫びそうになるのを押し殺すだけで精一杯だ。


「……そうね。なら、遊びましょう。テオドール。──」


 優しげな声で言葉を紡いだ魔女は、まるで微笑んだ。

 ぞっとするほどに、悲鳴を上げてしまいそうになるほどに、まさしくそれはシェリアの顔に見えた。見えて、しまったのだ。


 魔女の顔に、その表情に目を奪われた次の瞬間、握り締めていた剣が勢いよく燃え上がった。そして、それとほぼ同時。足元から噴き出した炎がひと瞬きの間にテオドールを包み、巨大な火柱を作り上げた。


「──ッ!」


 振り払おうにも剣を握る右腕が持ち上げられない。

 駆け出そうとしても、足が動かない。

 耐え切れずに剣を放り捨てて膝をついたテオドールは、あまりにも空気が熱されていて呼吸もできずに左手で口を覆った。

 生き物の焼けるニオイがする。

 動物の、毛皮ごと肉が焼けていく不快な異臭に似ていた。

 全身から汗が噴き出して、滴り落ちた血さえも燃え上がる。


「あら、もうおしまいなの? もっと遊んでくれなきゃ、ねえ? そうでしょう──テオドール」


 轟音が耳の奥にこだましている。

 炎の音なのか心臓の音なのか血流の音なのかも分からない。

 踏み出したいのに、距離を詰めたいのに、まるきり身体が言うことを聞かなかった。


 分かっていたはずだ。

 魔女に対抗する術がない。

 どうやって殺すつもりだったのか──。


 頭の中でもう一人の自分が責め立ててくる。


 敵討ちどころか、彼女ひとり守れないままで。

 このままで。こうやって死んでいっていいのか──。



「──テオ……ッ!」



 悲鳴じみた声に呼ばれて目を見開いたその瞬間、テオドールの視界は月の光に塗り潰された。

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