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女神の導きか、魔女の囁きか 8


 光を纏った弓矢が雲を貫いた直後、黒々とした雲に開いた一突きの割れ目から光が迸り、空を満たしていた重たげな雲が一気に大きく引き裂かれた。そして、まるで一滴のオイルを水面に垂らした瞬間のようにひと瞬きのうちに光が空を覆い、嵐を連れていた雲が一瞬にして消え去ってしまう。


 雲が消え失せたことで月明かりが周囲を照らし始めると、狼達の身体がじわじわと薄れ始めていた。灰色の煙を纏うその身体は、喉のあたりに赤い球体が覗いている。


 テオドールはその深紅に目掛けて剣を真横に振り払い、狼の喉を裂いた。核を失った狼は、ヘドロのような黒い塊となってその場で朽ちていく。それさえ分かれば、勝機は見出せる。月の光を受けた白い石畳を蹴って駆け出したテオドールは、食って掛かってくる狼達を次々に斬り捨てながら大狼を目指した。

 ちょうど、その喉元でも赤い石が鈍く光っている。


「──……ッ!」


 空気を引き裂く荒々しい咆哮に鼓膜が痛んだ。人の胴体ほどもある前足を振るった巨大な狼の一撃をかわして石畳を転がったテオドールは、すぐさま膝をついて体勢を整える。

 喉を狙うためには、相当に距離を詰めなければならない。チャンスは多くないだろう。あの爪に、あるいは牙にかかれば、ひとたまりもない。


 剣を握る右手に力を込めながら、テオドールはじっと大狼を睨みつける。

 三つ目をぎらつかせた大狼の咆哮が周囲に轟いて、地面が揺らいでいるようにすら感じられた。

 風になびいた黒い毛並みは、やはり火の粉が散るように黒々とした輪郭を散らしている。テオドールは指先が痺れるほどに力を込めたまま、今度こそ落とすまいと剣を握り締めた。


 その巨体を揺らした狼が再び咆哮を上げた時、テオドールの耳元で空気が裂ける。

 ヒュッと一瞬ばかり視界を横切った残光を認識した直後、大狼が空に鼻先を向けて仰け反った。


 皮膚が盛り上がった額の割れ目から、半ばほど飛び出していた眼球には光に包まれた矢が突き刺さっている。


 それを見た瞬間、テオドールは一気に駆け出した。

 距離を詰める数秒がひどく恐ろしい。もしもの瞬間を、想像してしまうからだ。


 肉の焼け焦げるニオイが鼻についた。

 それが狼からのものなのか、自分なのか、それとも周囲からのものなのかも判断がつかない。苦痛を嘆いて声を荒げるように唸った大狼の懐に飛び込み、喉元を切っ先で引き裂いた。

 しかし、黒い輪郭が揺らいで流れるばかりで、深紅の玉には届かない。


「──チッ!」


 舌打ちを漏らして奥歯を食いしばったテオドールは、左から右へと振り払った剣を引き戻した。そして、脚に力を込めて踏ん張りながら、剣を逆手に握り直し、赤い部分を目指して真っすぐに突き立てた。

 肉を裂く感触はない。手に返ってくるのは、まるで泥に硬い棒を差し込んだ時のような感触だ。

 その瞬間、テオドールの視界が反転した。


 ひと瞬きのうち、石畳に身体を押し倒されて全身が跳ね上がる。

 何が起きたのかを理解するよりも先に背中から腰にかけて痛みが走り、肩に食い込む硬い感触に思わず呻いた。


「っ、ぅぐ……あァ、クソ──ッ!」


 狼の巨躯に踏みつけられた全身が、まるで火が付いたかのように熱かった。

 喉を伸ばして自分を見下ろす大狼の喉元には、まだ剣が突き刺さったままになっている。


 ひたりと、顔に何かが落ちて来る。

 狼が開いた大口の奥から垂れ落ちたそれは、唾液というべきなのか。廃油のように黒々としていた。

 たった数秒が永遠のように感じられた。

 狼の喉奥には何もない。ただぽっかりと、闇が広がっているだけだ。まばゆい剣の光さえも届かない。


 鋭く尖った牙が眼前に迫る中、テオドールは辛うじて剣に引っ掛かっていた右手に力を込めた。


 こんなところで、こんなバケモノに殺されてたまるか。

 お前に殺されるために、生きてきたわけじゃない。


 これが運命だというのなら、せめて彼女に、シェリアに、一目でも会いたかった。


「クソがぁああああ──ッ!」


 剣を握り直した右手の甲を左手で掴むようにして支えながら、渾身の力を込めて剣先を狼の喉に押し込んだ。

 それと同時に強く目を閉じる。

 剣が放つ光さえも届かないほど深い闇に飲まれる覚悟などできようはずもない。

 大狼の咆哮が間近で生じたことに心臓が大きく跳ね上がった。


 ──ふっ、と。


 急に手元が軽くなる。

 ハッとして目を開いて顔を持ち上げると、割れた深紅ごと黒い輪郭が霧散していく様子が見えた。月明かりを吸い込んだ剣が瞳を灼くほどの強い光を伴い、一瞬にしてテオドールの視界は白一色に覆われていく。


 目を閉じていたのか。それとも開いたままだったのか。

 それすらも分からない数秒が過ぎ、やがて光が消えていくにつれて視界に色が戻って来る。


「……っはぁ、……はーっ……」


 胸を大きく上下させたテオドールは、狼の姿が消えていたことに思わず脱力した。

 重たい音と共に石畳の上に剣が落ちる。

 心臓が激しく脈打っていて、耳奥から鼓動が聞こえるかのように錯覚していた。

 打ち付けた背や腰には鈍い痛みが生じていて、両肩からは熱の感触と血の臭いがしている。


 自分の身体のことだというのに、まるで薄いベール一枚を隔てているかのようだ。どこか他人事のように思いながら、晴れ渡った夜空を見上げた。


 だが、いつまでもこうしてはいられない。

 何とか全身に力を込めて起き上がると、傍らにイクセロンがやって来た。


「……さすがだな。ここまでとは、思わなかったが」


 テオドールから数歩離れた位置に座り込んだイクセロンは、はーっと息をついた。

 そんな彼の手元には、弦の切れた弓と折れた矢だけが残っている。

 あれでは何の役にも立たないだろう。

 よくよく見れば、片手が赤黒く腫れているようだ。


「……大丈夫か」

「君に言われるとはな。いやいや、年は取りたくないもんだ」


 見るからに満身創痍といった様子の青年に気遣われたイクセロンは、苦笑いを浮かべた。そして、既に立ち上がっているテオドールを見上げて、ゆっくりと頷く。


「あの子を見つけてやってくれ」


 イクセロンの言葉に頷いたテオドールは、落としていた剣を拾い上げて周囲を見回した。

 どこからか、焦げくさい臭いが漂っている。

 風向きを思えば、それは狼達が出現した方向と合致しているようだ。


 ふーっと息を吐いて呼吸を整えたテオドールは、すぐに走り出した。石畳が敷き詰められていた広場を抜けると、再び荒れた山道に出る。

 道なき道を駆けていくと、焼け焦げた痕跡が点々と続いていることに気が付いた。


 奥に向かうにつれて焦げ臭さが増していく。

 赤とも黒とも言い難い特有の揺らめく炎が木々の向こう側に見えた時、テオドールは思わず息を飲んだ。


 燃え盛る炎の揺らめきは、かつての故郷を思い出させた。

 あの炎に飲まれながら、故郷のみんなは死んでいったのだ。

 父も母も、そして、まだ三つを数えたばかりの弟も。

 引き裂かれた肉体から溢れ出る異臭とむせ返るような血の臭い。

 肉を焦がして、尚も勢いを留めない炎がもたらす異様な熱と特有の悪臭。


 なぜだ。まるで、これではまるで──あの時と同じだ。

 故郷の惨劇が脳裏を過ぎる。あれは決して過去ではない。何度も何度も夢に見た。

 最後に触れた弟の小さな、あまりにも小さすぎる手も、未だかつて感じたことのない激痛に泣き叫んでいる声も忘れたことなどない。


 足が竦む気がした。これ以上は進んではいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響いている。まるで悪夢の再来だ。見たくない。

 あの凄惨な現場が広がっているのかと思うと、胃の内容物がすべて逆流しそうだ。


 まさか、彼女が。もし、だったら。


 魔女だったら、とはもう思えなかった。

 ただ、魔女に何かされていたら、と。恐ろしい想像が脳利を過ぎる。家族のように、もしも犠牲になっていたら。


 自分はまた、失うというのか。おぞましい想像が広がって、恐ろしさに背が震えてしまう。しかし、それでもテオドールは足に力を込めて地面を蹴って森を駆け抜ける。傍らの存在を失うことは、守れなかったのだと後悔することは、もうたくさんだった。


 やがて、木々の間から抜け出た先──開けた場所一面を炎が埋め尽くしていた。まるで波のように揺らめく炎が今まさに木々を食い散らかしている。勢いよく燃え盛る炎の中心には、流れるような異色があった。



「──……シェリアッ!」



 テオドールは肌を焦がす熱と揺らめく炎の中、喉が痛むことも厭わずに叫んだ。


 炎の輪が織り成した唯一の空白。

 中心部分に浮かび上がる銀と、──金。



 ぐったりと項垂れたシェリアを抱いた魔女が、空中に座り込んでテオドールを見据えていた。

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