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女神の導きか、魔女の囁きか 7


 斜面を転がり落ちたテオドールは、大樹の幹にぶつかってやっと止まった。上がった息を整える暇もなく、周囲に視線を走らせながら立ち上がる。

 手放してしまった剣は見当たらない。しかし、剣が使えたとしても万事休すだ。大狼には物理的な攻撃が効かなかった。だとすれば、もう対抗する術がない。彼女がこの先にいるかもしれないというのに──。


 けたたましい音と共に稲光が周囲を照らし出した時、テオドールは思わず息を詰めた。

 斜面の上に巨大な体躯を揺らめかせた大狼がいる。ぎらついた三つ目がテオドールの姿を捉えた瞬間、一気に距離を詰められた。

 背後には大樹、手元に武器はない。

 ここまでかと思った、次の瞬間──


「──っと、そこまでだ!」


 大狼とテオドールの間に一人の男が割り込んだ。

 まるで月明かりを閉じ込めたかのような眩い光を纏う剣を持った男は、草木を薙ぎ払うように三つ目の巨大な狼を振り払った。

 弾き飛ばされた狼が飛び上がって斜面の上へと舞い戻る。

 黒い狼達もまた、怯んだように次々に距離を取り始めた。


「遅れてすまんな。道に迷ってしまった」


 肩越しに振り返った男の顔を見た瞬間、テオドールは驚きで言葉を失った。斜面に立っていたのは、アジュガ孤児院の責任者──イクセロンだったからだ。

 テオドールにとっては予想外の相手だった。


「何とか間に合ったな。さあ、これを使ってくれ。私にはこいつらがある」


 笑みを浮かべたイクセロンは、手ぶらになっているテオドールへと光輝く剣を差し出した。雷光ばかりが頼りだった視界を十分すぎるほど照らすそれは、一目で単なる剣ではないと知れた。


 こいつらとイクセロンが示したのは弓だ。

 背負っていた筒から弓と矢を取り出した彼にテオドールは眉を寄せた。この雨の中では、しかも狼達が相手ではあまりにも心許ない武器ではないか。

 しかし、迷っている暇などない。三つ目の狼が体勢を立て直す前に剣を構え直した。


「何故、ここが」


 テオドールの短い問いに、イクセロンは再び肩越しに振り返って笑みを浮かべた。

 そして、テオドールの斜め後ろ──ちょうど大樹の隣に立つ位置まで下がる。


「種明かしはあとだ。──来るぞ!」


 荒々しい咆哮が夜の森に響き渡る。

 嵐によって吹き付ける風のせいか、三つ目の狼によるものなのかも分からなくなるほどに荒々しく周囲の木々が激しい軋み音を立てる。ぬかるんだ斜面に足を取られないよう踏ん張りながら、大狼が駆け出す動きを見せたと同時にテオドールも駆け出した。


 あの巨体は他の狼達よりは早くない。

 狼達と遭遇した瞬間とは違い、この場が開けた場所でなかったことは幸いだ。

 裂けた口を大きく開いてまっすぐに襲い掛かる大狼に向かって右腕を大きく振るう。左下から右上へと狼の口を引き裂く一線が光を帯び、ひと瞬きのあと、剣からまばゆい光が迸った。


 先ほど剣で引き裂いた時、全く手ごたえはなかった。

 だが、今は確かに何かがそこにあると感じられる。

 光と共に引き裂いた狼の巨大な身体に亀裂が浮き上がった瞬間、大狼は三つ目を大きく見開いた。そして、鼓膜がビリつくほどの咆哮と共に地面を蹴りつけてテオドールから離れていく。


 煙のように漂う大狼の身体には確かに傷が生じている。

 遠目からでも、その亀裂に燐光がまとわりついている様子が見えた。


「──よし、こっちだ!」


 周囲を見回していたイクセロンが声を上げる。

 急に駆け出した彼に戸惑いながらも、テオドールもまた狼達を避けるルートで先を目指した。

 地面から突き出た岩を踏んで大樹の根を蹴り、滑らないためになるべく土と草を踏まないように駆け上がる。


 斜面が次第に緩やかになってしばらくすると、やがて少し開けた場所に出た。

 元々は建物か何かがあったのか。随分と古いものの、石畳が足元を埋めていて広場のようになっている。


 広場の中央あたりに駆け寄れば、頭上に木々がないために遮られない激しい雨が全身を打ち付ける。流れ落ちて来る雨が邪魔で、テオドールは眉間に皺を寄せながら前髪を掻き上げた。


 同じように斜面を駆け上がって来た三つ目の大狼が、高々と跳躍して広場の中央へと降り立った。

 ミシ、と石畳が軋んでヒビが走る。燃え盛る炎のようにも、くゆる煙のようにも見える黒々とした毛並みは、確かに重みを伴っていた。


「……チッ」


 開けた場所で大狼の姿がよく見えるようになると、その身体に走らせたはずの亀裂が元に戻っている様子に気が付いた。

 これではキリがない。再び剣を構えたテオドールの視界の端に、弓を弄っているイクセロンの姿が入り込んだ。


「テオドール。すまんが。少しだけ時間を稼いでくれ」

「……分かった」

「すぐに終わる」


 ギリリと弓の弦を引き絞るイクセロンを背に庇ったテオドールは、四つ足で立っている巨大な狼を睨み見た。

 時間を稼ぐとして──どうすればいいのか。

 周囲には六頭の黒い狼。そして、正面には巨大な狼が佇んでいる。

 三つ目の大狼が鋭い牙を剥き出しにしながら唸り始めれば、途端に周囲の黒い狼達が臨戦態勢に入った。


 どうやら他の狼達を指揮している様子だ。ならば、やはり三つ目以外の狼達をいくら斬り捨てても無意味だと思えた。


 身を低くしてから一気に駆け出したテオドールは、襲い掛かる黒い狼を斬り付けた。そして、霧のように散る身体を見送ることなく、振り向きざまに他の狼へと剣を叩きつける。

 次々に襲い掛かって来る個体の数は変わらない。全く減る気配がないのだ。

 光を纏う剣を突き付けたせいか、巨大な狼は獰猛な唸り声を上げるだけで再び飛び掛かってはこない。しかし、決定打がない。このままでは消耗するばかりだ。

 何度目かも分からない黒い狼の一撃をいなして剣を振るった直後、弾けたような光が背後から立ち上がった。


 影が炎に照らされたかのように揺らめき、狼の姿が僅かに薄れるほどの強い光が周囲を煌々と照らした瞬間、テオドールは思わず背後を振り返った。


 生き物のようにうねる光は、弓矢に宿っている。

 限界まで弓を大きく引き絞ったイクセロンがそれを真上に解き放つと、その矢は更に白く燃え上がり、空気を引き裂きながら真っ直ぐに天を貫いた。

 重たげな雲の中心が裂けた直後、目を開いていられないほどの強い光が周囲を煌々と照らし出す。

 太陽のものでも月のものでもない純白の光──たった一筋の矢であったはずのそれは、やがて帯状となって雲の裂け目を広げ、ひと瞬きのあとに空を覆い尽くした。

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