背後からカディアンに名前を呼ばれたことには気が付いたものの、テオドールの足は止まらない。
焼け焦げたニオイが、この激しい雨の中でも妙にハッキリと鼻腔を刺激する。木々や地面には、ところどころに焦げた痕跡が残っていた。雨に濡れた地面に滑りそうになりながらも、テオドールは生い茂った枝や草を掻き分けて進む。
頭上では稲光が空を裂いている。
獣道とすら呼べない悪路の中、それでもこの先に何かがあると思った。
思い出したのは、彼女がいなくなった時のことだ。彼女が自らの意思で自分から離れたあの時、心底から不安に思ってひどく肝が冷えた。
「──……シェリアッ!」
テオドールは雨で濡れた前髪を掻き上げて、更に斜面を駆け上がっていく。
間違っていた。そうだ、
彼女にとって安全が約束されているなどと。
どこにいたところで、魔女が襲ってくる可能性はある。
どこにいたとしても、魔女だと謗られる可能性はある。
それは分かっていたはずだ。
それをよく知っていたはずだ。
僅かばかりの希望に縋った結果がこれだ。
確実にそうだと納得できるまで、彼女の傍を離れるべきではなかった。
カディアンもそうだ。せめて、自分がついていれば、彼をあれほどまで不安にさせることもなかったかもしれない。
風車の街で使われていない家に身を隠して震えて彼女は、どれほど不安で心細かっただろうか。そう思うと脚に、腕に、力が入った。
何度でも見つけてやる。どこにいたって探し出してみせる。だから無事でいろ――と。
駆け上がった斜面の先に、黒い何かがいた。
稲光が時折照らし出す以外は暗闇に包まれている森の中でも、それは妙に浮き上がって見えている。
黒い毛並みを持った狼の姿をしているが、明らかに普通の生き物ではなかった。その身体はまるで立ち上る煙のようで、黒々とした毛並みが浮き上がって揺らいでいる。
「……チッ!」
開けた場所だったことだけが幸いだ。
剣を引き抜いたテオドールは、一気に駆け出して距離を詰めた。そして、裂けた口を開いて飛び掛かって来る狼の身体を真横に一閃──引き裂いて、更に駆け抜ける。
稲光が荒々しく周囲を照らしてはいるものの、灯りも何もない森はひどく暗い。
本来であれば、引き返した方がいい。
唸り声を上げて飛び掛かって来た二頭目の狼の喉を引き裂いて、テオドールは更に走る。
ぬかるんだ土に転びかけて、泥に足を取られそうになりながら尚も走った。
この魔物が出たということは、近いのかもしれない。
焦げ臭いニオイがやけに鮮明だ。
その時点で、ただの火でも動物でも魔物でもないと判断していた。
「──ッ、……!」
生い茂った木々の合間から飛び出して来た狼を蹴りつける。
その間に空いた腕を鋭い爪に裂かれてしまったが、構っている暇はない。黒い狼の数は徐々に増えている。こいつらが人間をただ傷つけたいのであれば、街に出現していてもおかしくはない。
だが、それどころか、こいつらは孤児院に留まってすらいなかった。
目撃した子ども達だって無事に残っている。
ならば、やはり狙いは──。
「……っ、はぁ、……クソ……ッ!」
剣で切り裂けば手ごたえがある。
蹴りつけても殴っても確かに手に返って来る感触はあった。
だが、狼達は一撃を食らわせると必ずその姿を掻き消してしまうのだ。
そして、再び暗がりから現れては飛び掛かって来る。切り裂いても切り裂いても、狼達の数が減らない。いや、増えているのか、倒れた狼が起き上がっているのかも分からなかった。
次から次へと飛び掛かって来る狼を何とか切り伏せて、更に森の奥を目指す。
もしもこいつらが彼女を連れて行ったのだとすれば。
彼女は無傷ではないかもしれない。
カディアンが駆け付けるまでのわずかな間に、彼女は連れ去られている。
孤児院から自主的に出たとは思えない。手荒な扱いを受けた可能性が高かった。
「クソッ、クソッ、クソッ! ……邪魔だ、退けッ!」
苛立ち紛れに剣を振るうものの、暗がりの中では樹木の幹や岩などに弾かれてしまうこともある。このままでは剣先が馬鹿になってしまうと分かっても、振るう腕は止められない。
徐々に傾斜がキツくなれば、走る速度だって落ちてしまう。狼達の方が、圧倒的に有利だ。
雷鳴が轟いた瞬間に照らし出される視界の中、少なくとも六頭の黒い狼に囲まれていると知った。
状況は不利だ。最悪だった。
引き返した方がいい。準備をするべきだ。賢明ではない。
天候の悪い中、しかもこんな夜中に森に飛び込むなど馬鹿がやることだ。そんなもの、ただの命知らずでしかない。
そんなことは分かっていた。
だが、それでもテオドールは引き返したくなかった。
ここで引き返せるはずがない。
この先に、彼女がいるかもしれないのに。
徐々に呼吸が荒れて息苦しさが増した。
どこが切れているのかも分からない。全身が熱くなっていて、痛みと血のニオイは感じられるというのに、それがどこなのか分からない。
激しく打ち付ける豪雨の中、次から次へと飛び掛かって来る狼達をひたすらに切り裂いて彼女の名前を呼ぶ。
周囲一面を覆う大粒の雨に、木々をざわめかせる荒々しい風。狼の低い唸り声。閃光を伴って轟音を響かせる雷。
あらゆる音が混ざって、ひどく邪魔だった。
剣を握り締める腕どころか、いつしか手指までもが傷だらけになっていた。
狼の牙で爪で、裂けた皮膚に雨が打ち付ける。
彼女は何を思っていたのだろう。
失うことを恐れるあまり、自分の都合だけで彼女に我慢を強いたことを責めはしないだろう。
──俺はお前から逃げてばかりだった。
テオドールはひどく後悔していた。
彼女ときちんと向き合わなかったことも、彼女の傍から離れてしまったことも。毎度のことだ。離れて、何かが起きて。そして後悔する。ずっと連れ歩いて罵りを受けて、また後悔する。
すべて、自分の落ち度だと感じていた。
激しい豪雨の中、こんな暗闇に包まれた森で、降り注ぐ雨と雷の中に取り残されていたとしたら。そう思うだけで心臓が跳ね上がって、痛いほどに締め付けられた。
「邪魔だ──ッ!」
大きく跳躍して飛び掛かって来た狼の腹を剣で引き裂いた時、正面に異様な気配があることに気が付いた。一気に体温が上がる心地がして、斜面を駆け上がり続けていた足が止まる。
「……ッ」
暗がりの中から浮かび上がるその輪郭は馬ほどもある。
形は狼だ。しかし額は縦に裂け、裂け目からは今にも零れ落ちそうな眼球が覗いていた。
空気を引き裂く荒々しい咆哮が轟いた。天に向かって大口を開いた巨大な狼の周囲に、他の黒い狼が集まっていく。
その瞬間、激しい雨によってぐずぐずにぬかるんでいた足元がぐらついた。
足元に気を取られた刹那、目を瞬く間に距離を詰めた三つ目の狼が鋭い牙を覗かせる。握り締めた剣でその鼻先を真下から大きく切りつけたものの、他の狼とは異なって何の手ごたえもなかった。
焦りが生じて喉が鳴る。
高く掲げた剣を引き戻すよりも早く薙ぎ払われて、視界が反転した。
雷鳴が轟いたと同時に煌々と照らされた地面が見えて、その直後には空を引き裂いた雷が視界に入る。背中から地面に叩きつけられた拍子に血と汗に濡れた手から剣が抜けてしまった。
まずい──反射的に伸ばした腕の先に黒い狼が見えた。
破裂するのではないかと思うほどに心臓が暴れている。
黒い狼からの一撃を受けたテオドールは、そのまま斜面を転がり落ちた。