シェリアを孤児院に送り届けたテオドールは、中には入らずにアジュガで唯一の宿へと向かった。
アジュガには特産品を目当てに商人が来ることはあっても、旅人が立ち寄ることはほとんどないらしい。テオドールのことを珍しがる受付の青年を軽くいなしながら、宿帳に名前を書き込む。人数を書く欄で指先が少し迷った。
ここ半年は、ずっとふたりきりだった。そして、途中からはカディアンが加わっていた。
だから、人数の欄に"1"の数字を書くことが久しぶりすぎた。
ペンを握る手に力が入り、やがてゆるゆると抜けていく。
受付の青年が何か聞いてきたが、きちんと聞こえてはいなかった。
鍵を受け取った時に背後を振り返ってしまったのは、癖になっているせいだ。
扉を開く時に彼女の姿を探してしまうのも、室内が妙にがらんと寂しく見えるのもそうだろう。
視界の端にあの特徴的な銀が入らないことに違和感すらあった。
この半年のうちに、しみついてしまったに違いない。
テオドール自身、馬鹿馬鹿しいと思った。
シェリアが、彼女が自分の傍らにいることが、当たり前になってしまっている。
自分が巻き添えにして、魔女をおびき寄せる餌になるかもしれないと連れ回したというのに。
彼女を魔女だと罵倒した男達と、何も変わらない。褐色肌の青年ナルサスが、彼女にした仕打ちを責めることなどできなかった。
寂しく思うこと自体、間違っている。
「……」
扉を閉じると、宿の一室は急に暗くなった。
窓の外に視線を転じれば、あれほど晴れていたというのに重苦しい雲が空に広がっている様子が見える。
彼女も孤児院からこの外を眺めているのだろう。
今夜の天気は荒れるのだろうか。
荷物を適当に放り出してベッドに寝転がると、知らない天井だけが視界を覆う。
テオドールは深々と溜め息を吐いて、目を閉じた。
これで良いはずだ。
こうしなければ、彼女はずっと辛い思いをしてしまう。
だから、後悔することではないのだ。
彼女のためを思うのであれば、自分とは一緒にいない方がいい。
自分は決して復讐をやめられない。
中断して彼女と共に在っても、きっと彼女にはいらぬ心配をかけてしまう。
あの優しい少女に魔女の汚名を着せて、ひどいことをしてしまった。
彼女が傷付かずに過ごせる場所は、今のところアジュガ以外に考えにくい。
彼女のためだ。彼女のために、ここで別れる必要がある──。
そう言い聞かせても、どうにも気持ちに整理がつかなかった。
彼女の気持ちや言葉を遮ってまで、孤児院に来ると決めたというのに情けない。
徐々に外が暗くなり、やがて雨が降り出しても、テオドールはベッドから起き上がらなかった。
次の船はいつ来るだろう。
明日か明後日か。
天候が悪ければ、船の到着も遅れるだろう。
早々にミレーナの船に乗せてもらうべきだったか。
そうすれば、彼女のことを考えずにいられただろうか。
旅の終わりなど考えたこともない。
魔女に復讐を遂げた後のことなど、考える余裕はなかった。
ただ必死に魔女を追い続けて、あらゆる痕跡を追いかけて、僅かな情報にも必死に縋りついたものだ。
──故郷を奪った魔女を殺すこと。
そのために生きていたはずだった。
それがいつしか、旅が終わった後を考えるようになった。
彼女と共に過ごせればと、そんなことを夢に見てしまっていた。
「──情けない」
テオドールの声は、誰もいない室内にただただ落ちて消えていった。
降り出した雨が窓を叩く音がしている。
少しずつ、風も強くなっているようだ。
次の船のことを考えながら、また溜め息が漏れ出てしまう。
自分の決心が鈍らないうちに、彼女に情けない姿を晒さないうちに、ここから早く逃げ出したかった。
どれほど、そうしてベッドに寝転がっていただろうか。
ふと気が付いた時には、轟々と激しい雨風が窓を叩き揺らしていた。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
起き上がったテオドールは暗い室内を見回してから、また彼女を探してしまっている自分に気が付いて溜め息をついた。
軋むベッドから立ち上がり、窓辺へと近付いていく。
外は随分な荒れ模様だ。ガウラ号は大丈夫だろうか。
眉を寄せながら市場の方を見下ろすと、小さな灯りが点々とついている。
こんな天候でも店が開いているものなのかと、テオドールは少しばかり驚いた。
時間帯は分からないが、腹具合からすると夜も幾分か更けているようだ。
放り出したままになっていた荷物を漁ると僅かばかりの干し肉が出てきた。ここを発つ前に食料の買い出しも必要になるだろう。そう思いながら干し肉を見つめていたが、空腹感はあったものの食欲はない。
結局、干し肉を包みに戻して荷物に入れ直した。
食欲がなくても少しは口にしろと彼女には言っていたのに、随分と身勝手なものだと自然と肩を竦めてしまう。
そして、そこでやっと腰に剣を下げたままだったことに気が付いた。
全くもって、このような格好でうとうとしてしまうなど、情けないにもほどがある。
一度窓を振り返ったあと、テオドールは剣の柄に触れて目を伏せた。
この剣とは、もう随分と長い付き合いだ。
そろそろ五年になるだろう。
必ず魔女を討ち取るのだと決めて、鍛錬に励んだ──剣はいわば相棒だ。
この剣で、この切っ先で、彼女を傷つけずに済んで良かった。
もしもあの時、あの酒場で、彼女が逃げてくれなかったら、給仕の青年達が必死に止めてくれなかったら。
そう思うだけで今はひどく恐ろしい。
結局、剣を外さずに再びベッドへと向かう。
腰を下ろしたベッドが軋む音を聞きながら、激しい雨音を意識した。
これでは明日は船などつかないかもしれない。
夜のうちに抜けてくれるのなら良いのだが、と思って天井を仰いだ。
「──!」
テオドールの思考を途切れさせたのは、激しいノックの音だった。
ドンドンドンッと遠慮のないノックで扉が揺れている。
ノックというよりは、もはや殴りつけているに等しい。
思わず剣に片手を宛がいながら扉に近付くと、「テオドール!」と声が聞こえて来た。
「……カディアン。どうした?」
廊下にいたのはカディアンだった。
それも肩が上下するほどに息を切らしていて、全身がびしょ濡れになっている。
よくよく見れば転んだらしく、ズボンはすっかり泥まみれだ。
「テオドールっ、お願いだ、テオドール、助けてっ、シェリアが……ッ」
部屋に飛び込んでテオドールに縋りついたカディアンは、泣き叫ぶような声を上げた。
「──シェリアがいなくなった!」