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女神の導きか、魔女の囁きか 3


 穏やかな日が差し込む昼過ぎのこと。

 テオドールはシェリアと共に港まで戻っていた。


 そろそろ、ガウラ号が港を発つ時間だ。

 薄い雲が流れている空は高く晴れ渡り、波はとても穏やかで航海日和といえる。


「おや、おふたりさん。お揃いでお見送り?」


 ガウラ号を眺めていたテオドール達の背後へ、ミレーナが歩み寄ってきた。

 振り返ったシェリアが慌てて頭を下げる。テオドールもまた、軽く一礼をした。


「その、ありがとうございました。いろいろ……」

「なぁに、いいって。そんな改まらないでよ。ただのついでだからさ。むしろ、悪いね。予定がずらせなくてさ。滞在できりゃ良かったんだけど」


 ひらひらと手を振るミレーナは相変わらずの気さくさだ。

 そして、置いていく形になってしまうテオドールへと視線を受け止める。テオドールは緩やかに首を振った。


「ここまで運んでもらっただけで十分だ。感謝している」

「アンタは相変わらず、かったいなぁ」


 ふふ、と面白がっている様子で笑ったミレーナは、シェリアに向き直るとその顔を覗き込んだ。そして、きょとんと目を丸くしている彼女の、潮風に揺らぐ銀の髪に触れた。


「あっちこっち飛び回ってるけど、まぁ、何かあったら連絡してよ。屋敷に一報くれたらいいからさ」

「……うん。ありがとう」

「アンタもだよ、テオドール。どこからでも連絡がつくのが商人なんだ」

「すまない。また世話になるかもしれないが、その時はよろしく頼む」

「いいって言ってんのに、かったいなぁ、もう」


 小さく笑ったミレーナを呼ぶ声が、船の方から響いた。

 テオドール達を船室に案内してくれた青年が、「置いていきますよーッ!」と声を上げている。主人を置いて出立するはずもないが、早く戻ってきてくれという催促だろう。


「ハイハーイ! ちょっと待ってね! ──てなわけで。また、そのうちね」


 船の上では付き人の青年が今か今かと主人であるミレーナを待っている。他にもミレーナに用事がある商人達もいるだろう。あまり引き留められない。


 テオドールはちらりとシェリアを見遣った。

 言いたいことはきっと、彼女の方が多いはずだ。

 しかし、シェリアはミレーナを見つめるばかりで、うまく言葉が出て来ない様子でいる。

 すると、ミレーナはまた笑って、シェリアと目線の高さを合わせた。


「言ったろ? 世の中には、物知りと馬鹿がいるのさ。価値の分からない奴らの言葉なんて、気にすることないって」

「……うん」

「大丈夫だよ、シェリア。あのこわーい馬鹿には、私がキツく言っておくから」


 背を正したミレーナに、テオドールが「ナルサスは」と問いかける。彼女は腰に手を当てると、ちらりと船を一瞥してから向き直った。


「あれからずっと大人しいよ。反省したんじゃない?」


 シェリアが魔女だ──と、まだ思っているのなら、もっと抵抗してもよさそうなものだ。テオドールもまた、物置で話した印象からは確かに冷静さを取り戻しているように思えていた。

 一時的な激しい衝動。激昂とも呼べる感情の昂ぶり。自分ではコントロールできない異常なまでの憎悪と殺意。

 自分にも身に覚えがあったから、テオドールはあまりナルサスを責められなかった。


「ミレーナさーん!」

「わあ、叱られちゃう! ──分かった分かった! すぐ行くよ! それじゃ、シェリア、テオドール。またね」


 船上からの大声に対して、大袈裟に肩を竦めたミレーナはやはり笑っていた。そして、手を振るなり踵を返してタラップへと向かう。

 急いで走っていく様子を見送りながら、テオドールは再びシェリアを気にした。


 ゆっくりと港から離れていく船を眺めつつも、視界の端に彼女の姿を入れたままだ。立派な船体が軋む音を立てて揺らぎながら海へと向かう。

 高い位置にある太陽の光を受けて、銀の女神を抱いた船が海を揺らして進む。


「──シェリア」


 船が離れて潮風が強くなった頃、テオドールは静かにその名前を口にした。

 もう呼べなくなってしまう名前だ。


 そっと顔を上げたシェリアを見下ろして、テオドールは少しだけ言葉に迷った。

 しかし、自分にはやるべきことがまだ残っている。

 彼女を巻き込んで、傷つけて、その分も含めて──これからは、目的のために専念しなければならないだろう。


「今夜は、宿に行くつもりだ」

「……うん」

「次の船でここを離れようと思う」

「……うん」


 シェリアはみるみるうちに不安げに眉を下げた。

 そして、物言いたげに口を開いては、迷った様子で何も言わずに閉じてしまう。


 言いたいことはたくさんあった。

 しかし、どれもきっと彼を困らせてしまう。それは本意ではなかった。


「……テオ」


 彼の名前を呼ぶだけで、せいいっぱいだ。

 そんな自分が情けないというのに、それ以上に言葉が出てくれない。


 行かないで。

 連れていって。


 どちらを言っても彼の迷惑になってしまう気がして、シェリアはうつむいた。


「……シェリア」


 そんな彼女の様子を見ていられなくなったテオドールは「カディアンが心配するぞ」と孤児院に戻るよう促した。

 彼女にはいるべき場所がある。

 居場所が、ここにあるはずなのだ。

 そのために、カディアンは孤児院を飛び出して必死に探していた。


 彼女が物言いたげにしていることくらい、テオドールには分かっていた。

 ずっと彼女の気持ちを知りたくて、何を思っているのか、何を考えているのか伝えてくれと言い続けて来た。


 それが、なんと皮肉なことだろう。

 今は彼女の願いを、思いを、気持ちを、心を、希望を、無視しなければ彼女の安全が保障できない。


「──……孤児院に戻ってくれ。俺は宿に行く」


 沈黙に耐え切れなくなったテオドールが片足を引いて踵を返そうとした──その時だ。

 腰のあたりに小さな重みが掛かって、テオドールはビクッと全身を揺らして動きを止めた。


 見下ろした先には小さな頭。銀の髪が風に揺らいで流れている。

 薄い身体を押し付けて、細い腕を自分の腰に回しているシェリアに、テオドールは困惑した。


「シェリア……」

「……ごめんなさい」


 彼と一緒にいたいのに、自分がいては足手まといになってしまう。

 彼が自分を安全な場所に置いていきたい気持ちは分かっている。

 彼はとても優しい人だから。

 最初からずっと罪悪感を抱いていることだって分かっている。

 それでも、離れることが辛かった。

 できれば、もっと一緒にいたかった。


 しかし、それは伝えられない。彼の重荷に、後悔に、足枷になりたくなかった。


 だから今は、こうして触れて、せめて今のこの瞬間を引き延ばすことしかできない。


「……すまない」


 謝るシェリアの肩に触れて、テオドールもまたやんわりと腕を回した。

 腕の中にすっぽりと収まる身体は、やはりか弱く華奢な少女のものだ。


 彼女と一緒にいたくても、旅はこれ以上続けられない。

 彼女をこれ以上、危険に晒したくはなかった。


「すまない」


 彼女を魔女だと呼んだこと。

 彼女を復讐の旅に巻き込んだこと。

 彼女を危険に晒してしまったこと。

 彼女を傷つけてしまったこと。


 それなのに、だというのに、彼女を、シェリアを、愛しく思ってしまっていること。


「すまない……」


 テオドールはその小さな身体をぎゅうと抱き締めた。


 離れがたい。

 こんなにも別れが辛いものだとは思わなかった。


 もう声が聴けないのか。

 もう言葉を交わせないのか。

 朝日の中で微笑む彼女と食事の用意をするのは、嫌いではなかった。

 花に囲まれて楽しげにしていた彼女の姿を、忘れられそうにはない。


 もし、旅が無事に終わったら――


 魔女に復讐を果たして。


 彼女が普通に生きていくことができるようになったら。


 その時は。


 その時になっても。






 ──共にいたかった。

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