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この胸に抱いた抗いが、
あなたと私の間に生まれた最初で最後の感情だわ。
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褐色肌の青年が起こした一件以降、特に船内で"魔女"というキーワードが飛び交いはしなかった。当日こそ、その話をする者がちらほらとしたものの、それも翌日にはぱたりと消えていたのだ。
ミレーナの影響が強いのだろうとテオドールは思った。
誰も船の主を──それも、商人の間で強い影響力と地位を持つ者を敵に回したくない。だが、シェリアはほとんどの時間を船室にこもって過ごし、甲板にすら出ようとしなかった。カディアンが何度か誘いはしたものの、すべて不発に終わっている。
一度だけミレーナに誘われて船室から出たが、外にいる間はずっと緊張していたのだろう。その時は、ひどく疲れた様子だった。
結局、カディアンもテオドールも、彼女に気晴らしをさせることはできなかった。
そうして迎えた五日目の朝。
ガウラ号は深い森と切り立った崖に囲まれた陸の孤島──アジュガの港へと辿り着いた。
テオドールとシェリアが出会ったネリネ港とは距離こそあるものの、海を挟んで真向かいの位置関係だ。
出会ってから半年もの間、陸地をあちらこちらと巡ったが、海路で戻って来るとその道のりは実に呆気なく感じられた。
半年。たった半年だ。しかし、半年もの間、確かにふたりきりだった。
テオドールは、窓からじっと海を見つめているシェリアに視線を向けた。
これで、良かったのだろうか。良かったと、思いたかった。
そうでなければ、彼女の気持ちを、意思を、無視してまで連れて来た意味がなくなってしまう。
その願いすらエゴでしかないことを知りながら、それでもテオドールは願わずにはいられなかった。
陸路がほぼ使えない立地であるために、海路によって発展したアジュガの港は広々としている。港の向こう側には街が広がっており、質素な建物ばかりではあるものの規模はそれなりだ。
更に街の向こうには山々が連なっていて、ぽつんと建物の一部が見えている。カディアンが言うには、あれがアジュガの地名からそのまま名付けられたアジュガ孤児院らしい。
「アジュガっていうのは、この場所っていうか土地そのものの名前なんだ。ついでに街も孤児院も、そう呼ばれるようになったんだって」
一足先にミレーナに連れられたシェリアがタラップを降りていく間に、カディアンはテオドールに話しかけた。
孤児院に資金援助をしているだけあってか、ミレーナもアジュガには詳しいようで、懐かしがっている様子で彼女に話を振っている。
そんなふたりとの距離が少し開くと、カディアンは荷物を抱え直して呟くように言った。
「孤児院についたら、シェリアのことを調べてみようと思うんだ」
「……ああ。シェリアも知りたがるはずだ」
「うん、そう思って……どうだろう」
カディアンは、少し不安がっているようだ。
それで余計な事実が浮かび上がらないとも限らない──カディアンはそれを危惧したわけではなかったが、テオドールは少し考え込んだ。
知らずにいるべきだったことを掘り返してしまう可能性はあるだろう。
それが魔女に関係することではなかったとしても、彼女を孤児たらしめた理由が愉快なものだとは思えない。
「……ルーツを辿ることも悪くない」
テオドールはやがて、曖昧に言葉を告げた。
自分はここで、シェリアと別れなければならない。
その後のとを、彼女のことを、カディアンに託す立場だ。
あまり口を出すべきではないと感じてはいた。
しかし、無責任に放り出すこともまた、できないと思っている。
「……孤児院の責任者と話がしたいのだが、難しいか?」
「え? ──ううん。大丈夫だと思う」
テオドールの言葉にカディアンは少し驚いたものの、すぐに首を小さく振った。
「僕から言ってみるよ」
「ああ。手間をかけて悪いが、頼む」
タラップを降りると、シェリアがふたりの傍へと寄って来た。
ミレーナは、既に他の商人達に囲まれて、何か話をしている。
逃れて来たというよりは、気を遣って離れて来たのだろう。
そんなシェリアの手を取ったカディアンは、「行こう」と短い言葉を口にした。
ミレーナは、今日の昼過ぎには港を発つと言っていたか。船の上で交わした挨拶を思い出しながら、テオドールは海を振り返った。
アジュガの街は質素だ。だが、決して貧しさは感じられない。
交通の便は確かに悪いが、山と海に囲まれた土地には様々な食料が溢れているようだ。賑やかな港と彩り豊かな市場を通り抜け、住宅が密集している区域を越えて街を出る。
港街を抜けたあとは、山道をひたすら登っていく。
そうはいっても、なだらかな上り坂が続いているだけだ。崖を登るわけではない。
道は曲がりくねっていて、時折はみ出した木々の枝などが邪魔ではあるものの、道として最低限の整備はされていた。
やがて建物の頭が見えて来る。
さらにしばらく進むと、開けた場所に出た。
「あれがアジュガの孤児院だよ」
先頭を歩いていたカディアンが振り返る。
険しい山が遠目に見えている中に、平坦な草原が急に出現してテオドールは少し驚いた。
教会を思わせるシルエットだが、特有の装飾等は見当たらない。
レンガ造りの建物は少し古そうではあるものの、荒れた雰囲気はない。
この平坦な草原全てが敷地なのか、遠くには畑らしいものも見えている。
建物の周囲には花が植えられていた。
いくつかの井戸があり、子どもが外遊びに使ったと思わしき太い枝や縄などがカゴに入れられている。
一見すると、とてものどかな風景だ。
一段上がった先にある扉の前に立ったカディアンが、吊り下げられたベルの紐を引っ張った。いくつか連なったベルがシャラシャラと音を立てる。
ほどなくして施錠が解かれた音のあとに、扉が開かれた。
「──カディアン!」
やや不思議そうな調子で顔を見せた女性は、そこにカディアンの姿を見つけるなり声を上げた。
「ただいま! シェリアもいるから!」
笑みを浮かべたカディアンに誘われて、シェリアも玄関の前へと進み出た。
驚きのあまり両手で口許を覆ったその女性は、すぐさま扉を開け放ってシェリアの両手を握る。
そして、じっと見つめた後で、安堵したように微笑んだ。
「ああ、シェリア……シェリア、良かったわ。よく無事だったわね……おかえりなさい、シェリア」
「……うん。ただいま」
少し緊張気味だったシェリアも、安心した様子で肩から力を抜いた。
拒絶されたら、どうしようかと思っていたのだ。
嫌がられてしまったら、どうすればいいのか分からなかった。
その恐怖心と緊張感が抜けると、途端にどっと疲れが押し寄せて来る。
そんなシェリアを柔らかく抱き締めた女性は、「部屋はそのままにしてあるわ。いらっしゃい」と彼女を迎え入れた。
そして、室内に向かってシェリアとカディアンが戻って来たと告げる。
一気に賑やかさが増した玄関には、幾人かの大人達が集まって来たようだ。
カディアンもまた、安堵としていた。
シェリアを見た大人達がどんな反応を示すか。本当は少し怖かったのだ。
「──カディアン、あの人は?」
遠目に彼らを眺めていたテオドールは、女性に頭を下げられたタイミングで軽く会釈をした。そんな様子を振り返ったカディアンが「シェリアの恩人だよ」と告げる。
テオドールはそれを否定しかけたものの、面倒なことになると思い直して肩を竦めた。
「イクセロンさんはいる? 起きてるかな?」
「お部屋にいるわ。起きて──は、どうかしら……分からないけど」
向き直ったカディアンが問いかけると、女性は少し困ったように笑った。
それから、様子を見て来ると言い残して奥へと引っ込んだ。
「──テオ……!」
未だ遠巻きにしているテオドールに対して、シェリアが呼び声を上げた。
駆け寄って来た彼女に少し驚いたものの、テオドールは表情を変えない。
「入って、その、あっちに応接があるから……そこに」
少し遠慮がちに告げたシェリアに対して、テオドールは小さな頷きを返した。
良かった。彼女の居場所はここにある。
それで良いのだ。
これで、良いはずだ。
改めて建物を見上げたテオドールは、朝日を受けたその姿に眉を寄せながら目を細くした。