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存在の証明 3


 物置を後にしたテオドールは、再び甲板に出た。

 しかし、カディアンの姿はない。ぐるりと甲板を見回したものの、作業中の船員と商人が数名ほどいるだけだ。


 その商人の傍らにいたオノンがテオドールに気づいて手を上げ、小走りで近付いて来た。


「さっきのあの子は? もう大丈夫なの?」

「……ああ」


 テオドールはオノンを眺めながら、シェリアのことを考えていた。

 そろそろ診察も終わっている頃だろうか。

 カディアンは船室に戻っているだろうか。

 彼女がひとりきりになっていなければいいのだが。

 いいや、それは大丈夫だろう。ミレーナがついているかもしれない。


 だが、早く戻った方がいいには違いない。


「しばらく辛そうだね。魔女だってこと、噂されてるしさ」


 オノンはそう言って、商人達を振り返った。

 あの中には魔女を見た者もいるかもしれない。

 水都カラジュムで騒いでいた、商人達のように。


「……彼女は魔女ではない」


 テオドールは不快感を押し殺して否定を口にした。


「わ、わかってるよ。思ってないよ、そんなこと」


 笑って誤魔化したオノンを前に、テオドールは溜め息を喉奥に引き留めて視線を下げた。


「でも、大変じゃない? ああいうこと、よくあるんだろ?」


 オノンはそう言って、そっと肩を竦めた。


「あんまりアタシが言えた義理じゃないけど、ああいう子と一緒にいると、アンタまで迷惑しちゃうんじゃ──」

「……俺がそう言ったか?」

「え?」

「迷惑だと言ったか?」


 テオドールはとうとう不快感を露わにした。

 たかだか二カ月ばかり旅をしただけの相手に、どうしてここまで言われなければならないのか。

 どうして、あんな男が騒ぎ立てただけの一件で、彼女を迷惑扱いされなければならないのか。


 慌てたオノンが否定をしたものの、すぐに顔を背けて背を向けた。


「ま、待ってよ!」


 歩き出したテオドールの前に、オノンが回り込んだ。

 頬を引き攣らせながら何とか笑みを浮かべている様子に、テオドールは眉間の皺を深くした。


「あの子を悪く言いたいんじゃないんだよ。ただ、テオドールのことが心配で……」


 オノンの言い分にテオドールはうんざりと息を吐いた。

 銀の女神──そちらは広まらないというのに、魔女の疑いばかりが独り歩きしてしまう。眼前の女もまた、シェリアが魔女であることを、あるいはその疑いがあることを前提に話しているとしか思えなかった。


「……悪いが、心配無用だ。俺は自分で選んで彼女と共にいる」


 そう言い切ると、テオドールは大股にオノンの横を通り過ぎて歩き出した。

 これ以上話していると、怒鳴ってしまいそうだ。


 自分を袖にされたと感じた彼女は、些か苛立ったような、むっとした表情を浮かべた。


「──銀の女神か、災厄の魔女か。どっちが勝つだろうねッ!」


 背に投げられた言葉を受け止めても、テオドールは振り返らなかった。

 負け惜しみじみた女の言葉に何の価値があるというのか。あんなに面倒くさい女だったのかと、心底からうんざりしてしまった。


 彼女が魔女だというのなら、この船はとうに沈んでいるはずではないのか。

 それとも、自分達は特別に生き残っているとでも思っているのだろうか。


 甲板を進んで船室に繋がる階段を降りようとしたとき、一番下の段に座っているカディアンの姿が見えた。ずっとそこにいたのだろうか。わざわざあんな狭い場所に。


 カンカンと音を立てて降りていくと、カディアンは肩越しにテオドールを見上げた。


「銀の女神か、災厄の魔女か。──結構、堪えるね、自分のことじゃないのに」


 そう言って眉を下げたカディアンの様子に、テオドールは息苦しさを覚えて眉を寄せていく。あの女はこの少年にも同じようなことを言ったのか。それとも、先ほどの遠吠えが聞こえたのか。

 どちらにしても、災厄はあの女の方だった。


「シェリアは、ずっと言われてたんだよね。……どんな気持ちでいたんだろう」


 人がひとり通れる程度の狭い階段に腰掛けているカディアンは、まだ動かない。

 数段上にいるテオドールを見上げたままだ。


 魔女だと責められ、罵られ、謗りを受けて狙われて、彼女は何を思っただろう。


 シェリアは、苦しいとも辛いとも悲しいとも言わなかった。

 苛立ちも怒りも見せず、ただただ堪えて耐え続けている。


 どうして彼女がそんな思いをしなければならないのか。魔女さえいなければ、彼女は普通に暮らせていたはずなのに。


 テオドールはやるせない気持ちを抱えたまま、カディアンを見下ろした。


「……僕には想像もつかない」


 カディアンの言葉に対してテオドールは小さく首を振り、自分にも分からないのだと示した。

 そう、誰にも分からない。

 彼女の苦しみも悲しみも痛みも辛さも、きっと想像を絶している。

 見ず知らずの人物に憎悪と殺意を向けられ、命を狙われ、唐突に罵倒され、平気でいられるはずがない。


 彼女の苦しみはどれほどだろう。

 それを想像できないのだと、カディアンは自分を責めているようだ。

 自分を責めるなと告げたところで、気休めにもならないだろう。


 テオドールはどうしたものかと眉を下げた。


「だからこそ、安全な場所に連れていきたいんだ。協力してくれ」

「……もちろんだよ。あの子のためになるなら、何だってするよ」


 立ち上がったカディアンは、甲板に行ってくるよ、と告げて狭い階段をテオドールと入れ替わるように上がっていった。

 何でも、したいのだろう。彼女のためになることを、彼女を守りたいからこそ。


 甲板に出ていくその背を眺めて数秒後、テオドールは肩を組めて廊下に降りた。

 今のカディアンには、少し気持ちを整理する時間が必要かもしれない。

 追いかけるかどうかを迷った後で気持ちを切り替えたテオドールは、ひとまず部屋に戻ることにした。

 今はただ、アジュガでは彼女が穏やかに過ごせることを祈るしかない。


 部屋のドアをノックすると、ミレーナの声がした。


「やーっと戻って来たね。ほら、もう大丈夫だ。傍にいてやんなよ」


 ドアを開いたミレーナがテオドールに笑みを向ける。

 診察はとうに終わっていたのだろう。室内に治癒師の姿はなかった。


「それじゃ、私もそろそろ戻るね。──シェリア、お大事にね。何かあったらすぐ言うんだよ!」

「は、はいっ……」


 シェリアを振り返って声を掛けたミレーナと入れ違いにテオドールが室内に入り込む。

 すると、すれ違う瞬間にミレーナが彼の背をベシッと叩いた。


「シャキッとしなよ!」


 元気を出せという意味なのか。

 ミレーナは笑みを浮かべて手を振ると、ドアの向こうに消えた。

 いつでも気持ちが良いくらい明るい人物だ。


 テオドールはふと眉を下げた。


 それから、ベッドに腰掛けているシェリアへと視線を転じて近付いていく。

 彼女の顔色は戻っていて、見る限りは具合が悪そうな様子もない。

 何か問題があったなら、きっとミレーナが伝えてくれるだろうから、何もなかった思っていいのだろう。


 テオドールはそう判断したものの、念のために「何ともないか?」とシェリアに問いかけた。


「うん。……平気だよ。ありがとう」


 眉を下げて目を伏せた彼女は、やはり少し疲れ気味ではあるようだ。

 無理もないだろう。あのようなことが起きたのだ。平気でいられるはずがない。


「……少し休んだ方がいい。特にすることもないだろう」

「うん……あの、カディは?」

「カディアンは甲板にいる。少し風を浴びたいようだ」


 今は、彼女と顔を合わせにくいのかもしれない。

 カディアンのことは気になるが、今は彼女をひとりにする方がずっと問題だ。


「そっか……」


 どこか寂しそうに頷いたシェリアは、その視線をゆっくりと窓の外に向けた。

 ガラスが嵌め込まれた窓は開かないようになっている。風を取り込んでやりたいが、そういうわけにもいかなかった。


 彼女のベッドから離れたテオドールは、テーブルを挟んだ向かい側のベッドに腰掛けた。

 銀の女神と災厄の魔女。どちらが勝つか。


 そんなもの、決まっている。


「……ねえ、テオ」

「どうした」


 窓を見つめていたシェリアが自分を見つめていることに気が付いたテオドールは、ゆるりと顔を持ち上げた。

 眉を下げたままで笑みを浮かべた彼女が、何だか痛々しい。


「……私のこと、魔女だと思う?」


 その唇が放った問いを、一瞬ばかり理解できなかった。


 どうして。どうして、そんなことを言うのか。

 なぜ、なぜ、なぜ。そのようなことを言わせてしまったのか。


 テオドールは無意識のうちに立ち上がっていた。



「──お前は魔女ではない」



 何度繰り返したかも分からないその言葉は、どうして現実として浸透してくれないのだろう。

 彼女はそうではないのに。

 彼女は魔女とは違うのに。


 テオドールはじっとシェリアを見つめた。


 シェリアは眉を寄せて笑う。

 悲しげに、そして寂しげに。



「それなら、いいけど……」



 そう呟いた彼女に、テオドールは無力感に苛まれた。

 魔女だと思っていなければいい、のか。

 それとも、魔女でなければいい、のか。


 彼女にそんな顔をさせたいわけではなかった。彼女に、我慢を強いたいわけでもなかった。


 ──守れなかった。


 カディアンの言葉が頭に過ぎる。

 それは俺も同じだと、テオドールはどうしようもなく己の無力さを呪った。 

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