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存在の証明 1



*



 ──許せない。


 ──許さない。



  あら、そう。なら、永遠に苦しめばいいのよ。



*







 青白い光の中、シェリアは自分の足元にかしずく誰かをぼんやりと見つめていた。

 誰なのかは分からない。きっと知らない人だ。顔はよく見えない。


 知らない誰かは、椅子に腰かけているシェリアの手を取ると、その甲に恭しく口付けた。下から掬い上げるように柔らかく手を取ったままの誰かは、薄く微笑んで再び見上げる視線を向ける。


 何か、言っているようだ。

 しかし、シェリアにその誰かの声は聞こえない。

 音にすらなっていなかった。風の音だけが妙にはっきりと聞こえている。


 淡い光の中で知らない誰かが、ゆったりと手を離して立ち上がった。

 その誰かが、どうやら青年の姿をしているらしいと知ったのはその時だ。


 音もなく背を向けた青年が、静かに離れていく。


 そして青年はやがて、淡雪のようなドレスを纏った女性を抱き締めた。

 女性もまた青年の背に腕を回して、身を寄せている。

 光の中にいるふたりの輪郭はあまり鮮明ではない。


 ひと瞬きのあと、青年は消えていて、女性のドレスは真っ赤に染まっていた。


 両手で顔を覆った女性が言う。



『──あの子を返して』









 ──そこでシェリアは目を覚ました。

 いや、目を開いたことで先ほどの光景が夢だったのだと理解したというべきか。銀の双眸がドレスの女性を探しかけて、ああ、あれは夢なのだと知った。


「──……シェリア」


 名前を呼ばれたシェリアが視線を向けると、そこにはテオドールがいた。


「……テオ……?」

「ああ、俺だ。……気分はどうだ。何か不調はあるか」

「……ううん。平気」


 シェリアは困惑気味に視線を巡らせた。

 どうやら船室で眠っていたらしい。

 傍らにいたテオドールが見守ってくれていたようだ。


 甲板で急に腕を引っ張られて、怒鳴りつけられて。

 それから、カディアンの腕の中に飛び込んで、そして──そこからうまく思い出せない。


 ゆっくりと起き上がった時、ドアが開いた。

 入って来たのはカディアンだ。


「──シェリア! ……シェリア、だいじょうぶ?」


 彼はシェリアが起きていると知るや否や声を上げて、直後には安堵した様子で肩を下げた。


「……カディ……うん。大丈夫だよ」

「本当に? 何ともない? 気持ち悪いとか吐き気がするとか、どこか痛いとかは?」

「……うん。ないよ、平気だよ」


 テオドールと入れ替わる形でベッドに寄ったカディアンは、矢継ぎ早に問いながらシェリアの頬に触れた。いつもより少しひんやりとしているように感じられて、思わず眉が寄ってしまう。


「……平気だよ」


 そんなカディアンの様子に、シェリアは困ったように眉を下げた。

 しかし、カディアンはまだ安心できない。


「だって……倒れちゃったんだよ、甲板で。……本当に何ともない?」

「うん、大丈夫。何ともないよ」

「……だったら、いいんだけど」


 それでも、カディアンはまだ不安そうだ。

 じっとシェリアを見つめていた彼は、不意にハッとしてテオドールを見上げた。


「テオドール。ごめん。ミレーナさんに……」

「……ああ。わかった」


 ふたりの様子を窺っていたテオドールは、カディアンの言葉に頷くとすぐに船室から出ていった。

 閉じられたドアを見つめていたシェリアの手を、カディアンがぎゅうっと握る。


「……シェリアが起きたらね、言ってくれって。ミレーナさんが」

「うん」


 いつもと違って、どこか歯切れの悪いカディアンに、シェリアは静かに首を傾げた。

 カディアンは、すぐには何も言えなかった。

 何を言えばいいのか。分からなかったのだ。


 彼女の手を握り締めて、何も言えない。

 怖かったのはシェリアの方なのに。

 恐ろしかったのは、シェリアなのに。


 彼女にナイフが向けられた時、全身が震えて身が竦んだ。

 怖くて恐ろしくて堪らなかった。


 腕の中で震えていた彼女が意識を手放した時には、まさか怪我をしていたのかと血の気が引いたほどだ。

 気を失っただけだなんて言われても、安心なんてできなかった。


 ぎゅう、と。

 強く握りしめた彼女の手に自分の体温が少しずつ移っていくような気がする。

 そうやって、温められたら、暖めていけたら、それでいいのに。


「……、……良かった」


 カディアンは、ゆるゆると息を吐きながら項垂れていく。

 辛うじて、その言葉だけが震える唇から漏れ出た。


「シェリアが無事で、……本当に、良かったよ」


 相手はたったひとりだったのに、自分だけでは守れなかった。

 それどころか奪われて、引き離されてしまった。もし周囲に人がいなかったら、彼女はすぐに殺されていたかもしれない。


 ベッドの傍らに膝をついたまま、握り締めた彼女の手を額に押し当てたカディアンは、まるで懺悔をしているような姿になっていた。


 そのまま数秒ほどの沈黙が続いた室内に、やがてノックの音が届いた。

 シェリアが顔を上げるよりも先に、カディアンが振り返って返事をする。


 開いたドアから顔を覗かせたのはミレーナとテオドール、そして知らない女性だった。


「気分はどう?」

「あ、えっと……だいじょうぶ、です」


 近付いてきたミレーナに場所を明け渡すために立ち上がったカディアンは、それでも彼女の手を離せずにいる。

 ミレーナはそんなカディアンに、構わないと言うかのように軽く手を揺らした。

 そして、改めてシェリアへと視線を向ける。


「熱は──うん。なさそうだね」

「は、はい……」

「ああ、こっちはね、治癒師だよ」


 シェリアの視線に気が付いたミレーナは、女性を振り返った。

 そして、再び彼女に顔を向ける。


「医師でもあるから診察だってできる優秀な人材だよ。ちょっと診てもらった方がいいかと思って。……いい?」


 ミレーナの言葉に、シェリアはこくんと頷いた。

 失礼します、と女性がベッドに近寄っていく。


 そのタイミングでやっと手を離したカディアンは、ドアを開いたままでいたテオドールと共に部屋から出た。


「……」


 沈黙したまま狭い廊下を進んでいく間、カディアンは何度も船室を振り返った。

 ミレーナ達を信用していないわけではない。ただ、彼女を残していくことが心配だった。

 服を脱ぐ可能性もあったから室内に留まるのはどうかとは思うものの、傍にいたい気持ちは強い。


 やがて甲板に出ると、周囲はもうすっかり海だけになっていた。

 小さく見えていた港は、随分と遠くなっている。


 船のヘリに歩み寄るまで、テオドールもカディアンも沈黙を守っていた。

 それを破ったのは、カディアンの方だ。


「……守れなかった」


 ぽつりと、それだけを溢す。

 言葉にすると実に呆気ない。自分はただ、守りたかっただけなのに。それすらできなかった。


「そう簡単なことじゃない。お前はよくやった」


 テオドールはそう言いながら、海に視線を転じた。

 揺らぐ波は穏やかだ。船の進行を妨げるものは何もない。


 テオドールもまた後悔していた。

 あの時、ふたりから離れなかったら。あの時、さっさと戻っていれば。

 青年とすれ違った時に、もっと牽制しておいたら。


 に意味がないとは知りながら、それでも後悔してしまう。


 いくら悔いたところで憂鬱な気持ちを招くだけだとは分かっている。

 それでもやはり、傍にいればと。そう思ってしまう。


「……テオドールは、今まであの子を守ってきたんだろ」


 船ベリに身を寄せたカディアンは、海を睨むように見つめた。


「……強くて、うらやましいよ」


 カディアンの言葉に、テオドールは何を言うべきか困惑した。

 実際のところ、カディアンがいなければ早々に彼女は刺されていたかもしれない。

 あるいは、あの華奢な身体なら船から突き落とされていた可能性だってある。


 カディアンはカディアンなりに、彼女を守り抜いたのだ。

 ナルサスがミレーナに気を取られた一瞬で、彼女の挙動を見て声を上げたのは彼だった。崩れ落ちそうになった彼女を、青年から引き離して逃したのは間違なくカディアンだ。


「俺はまだ不十分だ。……お前くらいの年頃の時には、誰かを守るなどと考えたこともなかった」


 テオドールの言葉に対して、カディアンは船ベリに凭れかかったまま片手で顔を覆った。そして、ゆっくりと息を吐く。

 吐き出した空気を手の中に閉じ込めるように口許を覆って、次第にその手指を組むように動かした。

 まるで祈りでも捧げるように、ヘリの上に肘をついて掌を重ねる。


「……僕、十六になったんだ」


 カディアンは祈るようにしながら告げた。


「もう、十六歳だって。大人だと思った。大人になったら、あの子を守ってあげられるって……そう、思ったのに」


 まるで懺悔のように、まるで謝罪のように、彼は言う。


「身体が、動かなかった。……全く」


 何が起きたのか理解するまでの数秒で、そのたった数秒で彼女は青年の腕に捕らわれてしまった。

 すぐに動けば、すぐに取り返そうとしていれば、すぐに殴りつけていれば、そうはならなかったかもしれないのに。


 できなかったのだと、カディアンは苦々しく眉を寄せた。


「……大丈夫だなんて、守るだなんて。……あの子に言う資格がない」


 泣き出してしまいそうなほどに声を震わせるカディアンに、テオドールは眉を下げた。

 誰かを守るなどと──そう簡単なことではない。

 咄嗟に身体が動くように、突然の出来事にすぐさま対応するなんて、旅をしていても難しい場合がある。

 不測の事態にいくら備えていたところで、隙はどこかに生まれてしまう。


 それは力が不足しているわけでも、覚悟が足りないわけでもない。

 カディアンを責められる者などいないというのに、それでも今の彼は自分自身をひどく責めていた。


 何が悪いのか。あの青年か。離れた自分か。傍にいたカディアンか。


 そんな答えは一つだ。


「……魔女を殺さなければ」


 そうしなければ、何ひとつ終わらない。

 彼女はずっと魔女として謗られ、狙われる羽目になるだろう。


 魔女ではないなら、──。


 彼女自身がを証明するなんて、できるわけがない。


 恐らくは永遠に、誰もが彼女の顔を見ては疑うのだ。

 肯定する証拠もないままに、否定する根拠がないことを理由に。

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