船員達が口々に怒鳴る声が甲板に響いている。屈強な男達が少し距離を取って囲んでいる輪の中央にいるのは、褐色肌の青年──ナルサスだ。
「オイッ! 馬鹿、やめろ!」
「何してんだッ、お前!」
「馬鹿な真似はよせよッ!」
そして、商人と思わしき男達に制止されているカディアンが声を上げた。
「──やめろっ、その子を離してくれ!」
今にも飛び掛かりかねないカディアンを、周囲の大人達が何とか引き留めている状態だ。
甲板に駆け付けたテオドールは、ぐっと眉を寄せた。
「な、なんの騒ぎ?」
傍らでオノンが呟くものの、そちらに構ってなどいられない。
船員達に囲まれている青年の腕に、彼女が──シェリアが、抱かれていたからだ。
怖がって縮こまっている彼女のその細い首筋に、青年はナイフを突きつけている。
説得しようと船員の一人が近付くと、ナルサスはナイフを振りかざした。
そのせいで男達は、なかなか距離を詰められずにいる。
ナルサスはひどく興奮していて、今にも少女や周囲の人間を傷つけそうな様子だ。
万が一のことがあってはならないと、船員達も迂闊な行動は取れない。
「その子は魔女じゃないッ!」
カディアンが悲鳴に近い声を上げた。
「お前達は魔女に騙されてるんだ。取り入って、利用されているだけだ!」
しかし、ナルサスは聞く耳を持たない。
その震える手が握り締められたナイフが太陽の光を受ける度、シェリアは小さな身体を更に小さく縮ませた。
呼吸すらできずに、言葉も出せないまま震えている。
シェリアの怯え切った姿に、テオドールは足の裏から一気に全身が燃え上がる心地を覚えた。
それは深くて強い、憎悪にも等しい苛立ちだった。
「──その子が魔女なら、この船はとうに沈んでいるはずだ」
低い声を漏らしたテオドールに、周囲の者達が視線を向ける。
カディアンを睨みつけていたナルサスもまた、テオドールを見た。
「魔女を見たのか。……ならば分かるはずだ。あの女がどれほど非道で残虐か」
ゆっくりとテオドールが進み出ると、ナルサスを取り囲んでいた男達が様子を窺いながら道を開いた。まだ少年のカディアンはまだしも、剣士の男がやってきたからだろう。
テオドールの目は、まっすぐにシェリアを見た。
「……っ、テオ……」
今にも崩れ落ちそうなほど震えている彼女は、辛うじて立たされているようなものだ。その姿は、あの酒場にいた時の姿そのものだった。
シェリアがテオドールを呼ぶ声に、ナルサスは信じられないものを見るような目を彼女に向けた。
「──ッ、黙れ。魔女め、ただの娘の振りはやめろ!」
「……ひっ!」
怒鳴りつけたナルサスが腕を動かすと、シェリアは小さな悲鳴を上げてぎゅっと目を閉じた。そんな彼女の──あまりにも、怯え切った様子にナルサスの手が動かなくなる。
炎の中で笑う非道な魔女と、小さなナイフに怯える少女が結びつかなくなったからだ。
彼女を魔女だと信じ切っていただろうに、今やナイフを突き立てることなどできないでいる。そんなナルサスの姿に、テオドールはかつての自分を重ねた。
──魔女めっ、この魔女め! か弱い娘の振りをして、何のつもりだ!
テオドールもまた、彼女を怒鳴りつけて剣を振りかざして追いかけた。
必死になって自分を止めようとする酒場の給仕達を振り払って、裏口から逃げた先で動けなくなった彼女を追い詰めたのだ。
眼前の青年は、まるきりあの当時の自分そのものだった。
しかし同情の余地はない。テオドールが剣に手をかけた、その時だ。
「やめな、ナルサス! 私の船で荒事は許さないよ、ここに魔女なんかいてたまるかッ! その子は私の客だって言ったろ!」
大声を上げたのは、ミレーナだった。
付き人の青年に連れられて、甲板に戻って来たらしい。
動揺しているナルサスの視線が、そして意識が、ミレーナに向いた刹那──
「──シェリア!」
今度はカディアンが声を上げた。
力が緩んだナルサスの腕から崩れ落ちるように抜け出したシェリアが、彼のもとへと駆け出していく。船員達を振り払ったカディアンもまた彼女のもとへと向かった。
ナルサスは呆然としていて、彼女を捕まえるどころか動けもしない。
シェリアを抱き締めたカディアンを、数人の船員達が庇うように囲った。大人達に守られた輪の中で、崩れ落ちたシェリアごとカディアンも膝をつく。
その姿は、あまりにもただの子どもだった。
まだ大人に守られるべき、ただの少女にしか見えない。
年端も行かない少女に、自分は何をしようとしたのか。ナルサスの手足がひどく震えた。
だが、まだナイフを手放していない。
「……彼女が、魔女に見えるのか」
テオドールの投げ掛けに対して、ナルサスはゆっくりと視線を転じた。
カディアンに縋りついて泣いているシェリアと、空中を歩き、人々を嘲笑い、数多の命を奪った魔女。
その二つの存在が徐々に結びつかなくなっていく。
あれだけ激しく燃え上がっていた復讐心と殺意はいつしか萎れて、自分が仕出かしたことに恐ろしさすら感じ始めていた。
「……だったら」
ナルサスの震えた声が甲板に落ちる。
「だとしたら、
カランと、乾いた音を立ててナイフが落ちた。
自分は何をした。何をしようとした。
ただの少女を。何の罪もない子どもを殺そうとしたのか。
波の音さえも届かないほどに、ナルサスの思考は沸騰していた。
全身が熱く燃え上がっている。それでいて、腹の底は冷え切っていた。
一度小さく跳ね上がったナイフを拾いもせずに膝をついたナルサスは、まるで絶望しているかのように叫んだ。
「──
絞り出すような声で叫んで項垂れた青年のもとに、幾人かの船員が近付いていく。
戦意を喪失したと見なしたのだ。
テオドールは未だ剣の柄に手をかけたまま、青年を睨みつけていた。
吐き気がするほどの嫌悪感だけが胸の奥に渦巻いている。
魔女ではない。──ならば、
その惨い問いに、答えられる者などいない。